短編

追想

 昔、とても好きだった人に逢った。
 当たり前のようにバスに乗ってきたから、私はとっさにうつむいてしまった。
 心の音が波打ち、声をかけていいものだろうかと一瞬悩んでしまう。足元がそわそわしてくる。
 さて、どうしたものか。
 後ろの二人席に座っていた私は目だけ動かして様子を伺った。彼はつり革につかまったまま一緒に乗ってきた友達と喋っている。話に夢中で私に気づく様子もない。
 私は少しだけほっとして、それでも被っていた帽子を更に深く沈めた。そしてもう一度だけ彼を観察する。
 懐かしい横顔に夕日が差している。
 スーツを自然と着こなす姿に時の流れを感じてしまう。
 あれからもう、何年たったのだろう。


 ――彼に恋した時、私は普通の女子高生で彼はひとつ上の頼れる先輩だった。
 彼の周りには沢山の友達がいて、その人望と明るさは私の憧れだった。
 その笑顔が私に元気を与えてくれる。
 最初は遠くで見ているだけだったのに、少しずつ話すようになって、いつの間にか好きになっていく自分がいたのはごく自然なことだった。
 そのままでいればよかったのに――
 関係を崩したのは私自身だった。
 いつもは小心者のくせに、恋に浮かれて当時の雰囲気に呑まれたのだ。
「先輩のことが好きです」
 その年のクリスマス、彼に告白してしまった。
 もちろん彼は私を後輩の一人としか見ていなくて丁寧にお断りされたけど、それからも私はずっと彼を見ていた。
 彼に気を使わせてはいけないと思いつつ。
 彼のことを好きになってはいけないのだと思いつつ。
 私なりに距離を置いていた。
 不自然にならないように明るくふるまって笑って「よき後輩」を演じる。  それが振られた者の定め、彼にできることだと私はずっと言い聞かせていた。
 でも――
 本当は彼の優しさにずっと心を締めつけられていた。
 彼が平等に与えてくれる優しさは、温かいけれど、私にとっては苦しいものでしかなかった。
 何度心の中で「好き」と「嫌い」を繰り返しただろう。
 何度嘘の笑顔を作ったことだろう。
 彼が高校を卒業してすぐ、人から彼が結婚するのだと知った時、私はどんな顔をした?
「おめでとう」と言っていたのはなんとなく憶えている。
 感情を殺して無関心な自分を装って、本当の気持ちから逃げていた私。
 本当は悲鳴をあげたかったのに。
 嫌だと泣いて止めたかったのに。
 あとになってどれほど後悔しただろう。
 彼のことが大好きだった。
 こんな苦しい想いはしたくない。
 自分を偽る恋は二度としたくないとあの時私は誓った。
 それは苦い青春の一ページ。


 ――私が窓ガラスに頭を寄せてぼんやり昔を懐古していると、突然二人掛けの座席が揺れた。
「久しぶり」
 彼の変わらない笑顔が私の瞳に映る。薬指には学生時代にはなかった銀の指輪。しょうのうの匂い。
 私は驚いて目を丸くしてしまったけど、さっきまでオロオロしていたのが嘘だったかのように、笑顔が自然とこぼれた。
「久しぶりですね」
「十年ぶりか? こんな所で逢うとは思いもしなかった」
「本当。驚きました」
「元気だった?」
「はい――私、結婚したんですよ」
 気づいたら私の方から話を切り出ししていた。
 三年前、私は彼とは別の人と結婚した。夫とは就職先の会社で出逢ったのだが、とても真面目で優しい人だ。
 周りからは似たもの夫婦だね、と言われることが多い。
 実際私もそう思う。普段がしっかりもので通っているぶん、お互いの前では素直に泣いたり怒ったり、時々甘えたりして毎日を過ごしている。彼の前なら私は私らしくいられる。
「そっかあ。子どもは?」
「まだです。先輩は確か男の子がいましたよね?」
 彼は高校卒業と同時に結婚し、一児の親になった。いわゆる「できちゃった婚」というやつだ。
「ああ。そのあとに双子が生まれてさ。もうすぐ三歳になる。女の子だ」
「すっかりパパですね」
 言いながら、彼が小さな子どもを抱えている姿が容易に想像できた。面倒見の良い彼のことだ、自分の子どもが可愛くて仕方ないに違いない。
 不思議なことに、今こうやって彼の近況を聞いても、昔のような嫉妬や悲しみは出てこなかった。
「旦那さん、いい人?」
「ええ」
「じゃあ今は幸せなんだ」
 彼が紡いだ「幸せ」という言葉がとても柔らかいものに感じる。それをストレートに口にするのが恥ずかしかった私は「まぁ、ぼちぼち幸せですね」と久しぶりにひねくれた返事をしてしまった。
 私の頬が緋色になったのを見て彼が目を細める。
「ならよかった」
 本当に安堵したような声がするりと抜けた。ただ、日だまりのような温かさだけが私たちを包んでいる。
 しばらくして澄んだ声が次の停車場所を知らせた。ゆったりとした動作で私はボタンを押す。
「私、このへんに住んでいるんです。そこのコンビニ曲がった二件先」
「今度家族みんなで遊びに来て下さい」と私は続けた。「じゃあ今度」と彼は返事をした。
 バスが停車する。
 私は運賃を払ってからバスを降りた。降りたあとも彼は窓からずっと手を振ってくれた。
 結局彼の口から奥さんの話は出てこなかった。
 それはたまたまだったのかもしれない。私に気を使ったと考えるのは深読みのしすぎだろう。だいたい彼が私の家に来るかさえ分からないのだ。
 でも、何にしても変わらない。彼の言動で私の心がときめくことはもうないのだ。
 ずっと彼のことが心のどこかでくすぶっていると思っていたのに。
 気がつかないうちに私は彼から卒業してしまったらしい。彼の全てが風のように流れて、たった今、思い出すら残さず消えてしまった。
 長かった恋の終わりはあまりにもあっけなくて、感傷に浸る時間さえなかった。
 さようなら、あの時の私。
 去っていくバスを見送りながら、私は心の中でそっと呟いた。
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