必勝祈願


 その人はなめかましい目つきで私を見ていた。
 私の頭からつま先までひととおり見定めた所で、つやつやの唇を開く。
「あなたが新條春花さん?」
 部活ジャージ姿のままの私は唾をのみこむ。こめかみからじっとりと汗が滲んだ。
「やっぱり似てるのね。このあたりなんか特にそう」
 長い髪のその人は手入れの行き届いた指で私の目元に触れる。つう、と頬をなぞられると私の背筋がぶるりと震えた。一歩後ずさると冷たい壁が背中に張り付く。
 ふいに腕が私の顔すれすれを抜けた。体育館の壁に手をつき、私の逃げ場を塞ぐ。
 これはまさか――世の女子が憧れる『壁ドン』ってやつですか?
 思いがけない展開に私は困惑した。
 目の前の相手がイケメン男子だったらきゅんきゅんして思考回路が吹っ飛んでいたに違いない。けど私の目の前にいるのは男子じゃなくて女子。それも読モにスカウトされても可笑しくないくらいの美人。
 こんな素敵な人ウチの学校にいただろうか?
 私にそっちの趣味はないけれど、こんな素敵女子なら壁ドンされるもの悪くないと思ったかもしれない――彼女の周りに鋭い目つきのギャルたちがいなかったら。
 今の私は別の意味でドキドキしている。これは命の危機を知らせる動悸だ。ちょっとでも体をねじらせたら喰われるんじゃないかと思う。頭からがっつり持っていかれて粉砕されるんじゃないかって。運よく上手く彼女の手から逃げられたとしても後ろにいる子分たちに捕まるのがオチな気がした。
 観念した私は気づかれないようにそっと息をついた。気持ちを一旦落ちつけてから彼女を見上げる。
「私に話って……何でしょうか?」
「ああ、それね」
 素敵女子はひと房の毛先をくるくる巻いたあとで私をじっと見る。意味ありげな微笑みで話を切りだした。
「あなた、青稜高校に通ってるお姉さんがいたわよね?」
 身内のことを聞かれ、びっくりだった。なんでそれをとも思ったけどとりあえず私は頷いておく。
 確かに、私には二つ上の姉がいる。
 彩夏(あやか)お姉ちゃんはその抜き出た学力から神童と呼ばれ、中学の時は生徒会の役員も務めていた。
 高三になった今も成績は常に上位を保っていて、私の親は今後も有名大学⇒一流企業のベクトルを信じて疑わない。たぶん、本人もそのつもりで勉強しているに違いない。
 そんな優秀なお姉ちゃんを持ったせいで、私の人生は常に影がついていた。
 私に「彩夏ちゃんの妹」という肩書がついたのは幼稚園の頃だし、小学校に入学してしばらくの間は上級生に彩夏ちゃんと呼ばれからかわれていた。中学の頃は姉と同じ部活(歴史研究会とかそんなのだったと思う)に引き込まれそうになったんだっけ。
 そりゃ、最初の頃は頭のいいお姉ちゃんが自慢だったし尊敬もしていた。でも、周りから色々比較されるようになると、お姉ちゃんの存在自体がうっとおしくなったのも事実だ。
 同じ母親から生まれた姉妹だけど、お互いの頭の中が完全に同じな訳じゃない。好みも違うし人生で同じ轍を踏むわけじゃない。
 だから私はこれまでお姉ちゃんが絶対歩まないであろう道をあえて選んできた。そうすることで心の安定をはかってきたのだ。
 平均的な体力しか持ってない私だけど朝から晩まで部活漬けの生活は意外にも性に合っていた。何よりも比べられずに済むのがいい。
 お姉ちゃんと違う高校に進学したことで、私の高校生活はとても充実していた。
 していたはずなのに――
「お姉ちゃんの事、何で知ってるんですか」
「あのね、お姉さんに伝えて欲しいことがあるんだけど」
「……何でしょう?」
 首を横に傾ける私に素敵女子はにやりと笑った。そのあとで顔を傾けてくる。キスされそうな距離に私が固まっていると、ふふ、と笑われた。耳元に唇が近づく。
「あんたとトオルは釣り合わない。だからさっさと別れなさい」
 その顔からは似つかわないドス声に私はぞくっとした。全身の毛が一気に逆立つってこういうことを言うんじゃないかと思った位。
 私は今にもこぼれそうな悲鳴をぐっと堪える。
 こうなったら相手の地雷を踏まないよう下手に出るしかない。
「あの、話の腰を折るようで申し訳ないんですけど」
「何?」
「えっと。まずトオルというのは誰なんでしょうか?」
「――あなた、何も聞いてないの?」
 私は首を縦に振った。
 私だってお姉ちゃんの生活を完全に把握しているわけじゃない。最近は無駄な会話もしないし。お姉ちゃんだって私のプライベートなんて知ったこっちゃない。
 ただ、私はお姉ちゃんの変化を薄々感じとっていた。
 髪を洗った後は自然乾燥だったのにまめにドライヤーをかけるようになったとか。あとはいつも使ってるリップクリームが透明から色つきに変わってたとか。
 漠然とした予感が確信に変わったのはよく家に忘れていた携帯を持ち歩くようになってからだ。なくても平気って言っていたはずなのに。今では肌身離さず持っている。
 最初は好きな人ができたのかなぁ、とか、そんな程度しか思っていなかったけど――まさか、付き合ってたとは。
 私にとってはまさにアンビリーバボー、青天の霹靂としか言いようがない。
 私の質問は向こうにとっても予想外の展開だったようだ。
 素敵女子は眉間に皺を寄せ、唇を結ぶ。少し考えてからその人物について教えてくれた。
「トオルは私達にとってアイドルなの。つまりみんなのモノ。だからちょっかい出されると困るのよね」
「はぁ」
「あの人に何度か警告したんだけど無視されちゃってね。こう言っちゃあ何だけどあの人って、人当たりが悪いじゃない? プライド高くてとっつきにくいって言うの? 私達がやんわり忠告してもバカにして聞く耳持ってくれないのよね。 だから私、考えたの。可愛い妹のお願いだったらあの人も快く引き受けてくれるかなーって」
 そう言って彼女は人差し指を頬に当てぺろりと舌を出す。素敵な考えでしょうと言わんばかりのポーズを取っているけど――
 悪いけどそれは絶対ないなぁ。
 私は心の中でこっそり呟く。
 あのお姉ちゃんが私の願いを聞いてくれるわけない。送信元の相手をバカにしてるなら尚更。絶対無理。
 なーんて声を大にして言いたくなっちゃった私だけど、実際はなかなか口を開けられないでいる。彼女たちの目を見てるうちに反論する気を失ったのだ。
 だってこの人、見た目きゃっきゃしているけど、目が怖いんだもん。笑ってないんだもん。回りにいるギャル達もガン飛ばしてるし怖いし。下手に反論して痛い目に遭ったりしたら洒落になんないじゃん。
 私は作り笑いを引きつらせた。相手の地雷を踏まないよう、その件に関してはこちらからもなるべく善処します、なんて浮気相手からかかってきた電話をごまかす夫的な台詞を吐いている。
 ピンチが訪れた時長いものに巻かれようとするのは私の悪い癖。防衛本能と言ったらそれまでだけど、こういう時は本当、何してるんだろうかと思ってしまう。
 素敵女子とギャルの姿が完全に見えなくなると、私は心からの安堵に包まれた。地べたに尻をついて、大きなため息をつく。
 とはいえ、私の中のもやもやが完全に解決したわけじゃない。
 私はポケットからスマホを取り出すと指をタップする。お姉ちゃん、今日は日曜日だけど午前中は塾の夏期講習に行っているはずだ。
 私はお姉ちゃんへのメールを飛ばすと制服に着替えるべく部室に向かった。


 最寄りの駅の近くにあるカラオケボックスで待っていると、指定時間きっかりにお姉ちゃんは現れた。
 内緒話に最適だと思ってここに来てはみたけれど、姉妹二人きり行くなんて初めてだ。だから挨拶も会話もぎこちなくなってしまう。それはお姉ちゃんも同じようで、ソファーに座っても何だか居心地悪そうだ。
「で。私に話って何?」
 私はもごもごと口を動かす。先に届いたジンジャーエールで一度喉を潤すけど、どう話を切りだしていいのか分からない。
 いきなりどういう事なの、って詰め寄ってもアレだし。万が一人違いでもアレだし。とりあえず適当な理由をつけておけばいいかな?
「その、お姉ちゃんも勉強ばっかで大変だなぁって思ってさ。たまには息抜きでもどうかなーって」
「……春花にしてはずいぶん気が効くわね」
「へへへ」
「まぁ私も春花に話があったから丁度よかったわ」
「え、そうなの?」
 何何、と身を乗り出す私に今度はお姉ちゃんがアイスティーを飲みこむ。ほんの少し目線を下げたあとで浴衣、と呟いた。
「春花が持ってる蜻蛉(とんぼ)のやつ、貸してくれないかな? 次の日曜日に使いたいんだけど――」
 思いがけない言葉に私は目を丸くした。普段頼られる側にいるお姉ちゃんが人に頭を下げること自体が珍しい。しかも夏の勝負服を借りるなんて。
「それってやっぱりデート?」
 次の瞬間、お姉ちゃんの顔が赤一色に染まった。よくよく見れば耳まで真っ赤にしているじゃないか。しかも唇をわなわなと震わせて。
 ベタなリアクションをするお姉ちゃんは本気で慌てている。そんな姿はめったに見られないからとても新鮮だ。あんなにも妬ましかったお姉ちゃんがちょっとだけ――いや、かなり可愛く思えて口元が思わず緩んでしまった。
「な、何でそれを」
「お姉ちゃんがトオルって人と付き合っているって、人づてに聞いたと言うか何と言うか――その、伝言頼まれちゃって」
 その言葉にお姉ちゃんの体がぴくりと揺らぐ。上気した表情がさっと冷め、頬が強張った。
「もしかして、別れるように説得してとか言われた?」
 流石お姉ちゃん、頭の回転が速い。私がそうだよ、とだけ言うとお姉ちゃんは黙りこんでしまった。
 しばらくして重いため息が落とされる。
「ごめん……春花にまで迷惑かけちゃったね」
「こう言ったらアレだけど、すっごい怖かった……あの女郎蜘蛛連中は何なの。お姉ちゃんの学校の人?」
「ウチの学校の制服着てた?」
「それは――着てなかったけど」
「じゃあ私も知らない」
「えっ、知らないの?」
「鎌田のファンって色んな所に出没するから私も良く分からないのよ。本人もどれだけいるのか把握しきれてないみたい」
「はぁあ?」
 私は素っ頓狂な声を張り上げた。
 どんだけ有名なんですか、その鎌田トオルとやらは。ギャルや素敵女子を骨抜きにするとは一体何をしでかした人なんだ?
 私は怪訝そうな顔でお姉ちゃんを見る。不信感を募らせる妹の姿を見てお姉ちゃんもさすがにまずいと思ったらしい。説明が足りなかったわね、と前置きしたあとで詳しいことを喋り始めた。
 お姉ちゃんの話によると、トオルこと鎌田遠流は半年前、コミュニティ誌に載ったのがきっかけで女子の注目を集めたらしい。美少女図鑑の男子版という特集で取りあげられたのだ。
 地元のみとはいえその影響はかなりのもので、お姉ちゃんの学校ではかなりの騒ぎになったらしい。そして本人の知らない所でファンクラブができてしまったのだという。
 最初は戸惑いを隠せなかったトオルだけど、今までにないモテ期の到来に最初は悪い気はしなかったらしい。けど、受験生でお姉ちゃんと付き合っている今はうっとおしい以外の何物でもないようだ。
 そして彼女たちも彼女たちで、トオルに冷たくあしらわれてもクールだ何だとへこたれずにいる。それどころかお姉ちゃんに攻撃をしかけるようになった。その理由はなんとなく想像がつく。きっとお姉ちゃんの地味すぎる恰好が彼女たちの「何か」を掻き立てたんだろう。
 お姉ちゃん自身もそのあたりは自覚があるようで、特に否定はしなかった。
「学校や塾で『別れろ』とか『ブス』とか『死ね』とか。しょっちゅう言われてるけどね。油断したらテキストに悪口書かれるし持ち物隠されたりするし」
「何その陰湿さ。そこまでするわけ?」
「たぶん私を責めることで自分を正当化してるのかもしれない。鎌田が私に騙されてるって思いたいんだろうね」
 ひどい目に遭ってるのはそっちなのに、しれっと人ごとのようにお姉ちゃんは続ける。
 淡々と事実を分析して結論を突きつめて行くあたりはお姉ちゃんの癖と言ってもいい。
 けどその渇いた物言いは他人行儀にも、人を見下したようにも聞こえるから危険だ。初対面の人間が聞いたら怒ってしまうかもしれない。
 お姉ちゃんは負けず嫌いだから人に弱みを見せようとしない。でも目の下に浮かんだ隈を見る限り疲れているのはバレバレだ。こんなんだと余計気になってしょうがないじゃないか。
 私が難しそうな顔で見ていると、心配を悟ったのだろうか。お姉ちゃんは大丈夫だから、とやんわり微笑んだ。
「塾や学校にいる間は彼が守ってくれるし私も戦うって決めたから。ただ、お父さんやお母さんにこのことは言わないで。変に心配かけたくないし、それに――」
「わかってる」
 こんな大事な時期に男ができたなんてバレたらまずい。娘ラブなお父さんなんか卒倒して二度と立ち上がれないかも。
 飲みかけの炭酸が徐々に抜けて行く。私の中で一つ疑問が解決すると、また新たな好奇心が湧いてきた。
「ねえお姉ちゃん」
「何?」
「彼氏の写真とかないの? プリクラは? こっちも巻き込まれてるんだから。万が一の為に或る程度の情報提供は必要でしょ?」
 私は尤もらしい理由を述べて詰め寄ると、最終的にほだされたお姉ちゃんが自分のバッグを手に取った。中学の時から使っているガラケーを操作し画面を私に見せてくれる。出てきたのはお姉ちゃんと彼氏のツーショット写真だ。
 白い背景をみる限り、学校か塾の教室で撮ったのかな? カメラに向かって強張った顔をしているお姉ちゃんと対照的に映っているのがトオルだった。携帯の中のトオルはさっき会ったギャル系のお姉さんたちが好みそうな顔立ちをしていた。
 はっきり言って見た目がチャらい。肌も小麦色で髪も金色でいかにもな感じ。でも、笑顔は文句なしに可愛い。
 お姉ちゃんと一緒にいるせいなのかは分からないけど、写真のトオルはとても嬉しそうな顔をしていた。キラキラしている。無邪気、とでもいうのかな? そのまぶしさに初見の私もときめいてしまったくらいだ。
「確かに。雑誌に載るだけのイケメンではある」
「うん」
「で、そんなモテ男がどうしてお姉ちゃんなんかと付き合うことになったわけ?」
 それは口から自然と出た疑問だ。けど言ってすぐにしまった、と思った。いくらなんでも「〜なんかと」という言い方はあまりにも失礼じゃないか。
 私は申し訳なさそうに姉を見上げる。姉は苦笑しながら、別にいいわよ、と言葉を返した。 
「私だって鎌田と付き合うことになるなんて思いもしなかったもの。むしろ嫌われてるんじゃないかって思っていたから」
 そう言ってお姉ちゃんは口元をほころばせる。その笑顔には憂いが少しだけ含まれていた。
 どうやら二人の間にもここに至るまで色々あったらしい。本当はもっと突っ込んだ話をしたかったけど、これ以上聞くのは野暮だと思った私は口を閉ざすことにした。
「――さっきの浴衣のことだけど。できれば着付けも手伝って欲しいんだ」
「そりゃ別に構わないけど」
 でもその日って――
 私はスマホの待ち受けにあるカレンダーで確認する。
 次の日曜日、八月三十一日はお姉ちゃんの誕生日だ。
 我が家では誰かしらの誕生日に家族全員でケーキを囲んでお祝いするのが恒例だ。
 今年もお母さんがお姉ちゃんの好きなクリームシチューを作って、休日出勤のお父さんも早めに仕事を切り上げて帰ってくるのだろう。
「帰り遅くなったらお父さんたちに怪しまれない?」
「映画を見に行くだけだし夕飯までには帰ってくるわよ。春花の宿題を手伝う余裕位あるから安心して」
「なーんだ……って! ちょ、何で宿題終わってないって前提なわけ?」
「だって毎年のことでしょう?」
「失礼なっ。今年はちゃんと終わらせました」
「あら珍しい。雪でも降るんじゃないかしら?」
 ぷうっと頬を膨らませる私を見てお姉ちゃんが笑う。同時に私達の心が過去へと飛ばされた。
 去年まで私は宿題そっちのけで夏休みを満喫していた。だから夏休みの最終日は大量の宿題を抱えて大騒ぎで。お母さんから全部終わるまでケーキはおあずけよ、と言われるのがオチだった。
 自分の誕生日でもないのにケーキ食べたかった私はめそめそ泣きながらドリルに向かって。主役のお姉ちゃんはというと私の隣りで宿題が終わらないのは計画的にやらないせいだと説教して。最後は仕方ないなぁ、と言って宿題を手伝ってくれた。お姉ちゃんは私の宿題が全部終わるまで一緒にケーキを我慢してくれたんだっけ。
 思うに、お姉ちゃんは他人が言うほどひどい人間じゃないと思う。そりゃキツイことも言うけど、何だかんだ言って優しい。たぶん、これまでにも私に譲ったり我慢した場面はあったのかもしれない。
 そんな苦労も知らず、私は表面に出てくる結果だけ見ていた。勝手に妬んでいたのだ。あの女郎蜘蛛たちと同じように。
「ホント、恥ずかしい」
 私はぽつり呟く。お姉ちゃんに何が? とすぐ返されたけど、私は首を振ってごまかした。
 姉の姿に自分が持っている浴衣を重ねる。麻の葉に蜻蛉が止まったあの柄は私も気にいっていた。蜻蛉は昔から勝ち虫と呼ばれていて、とても縁起がいいらしい。特に受験生への贈り物に最適だとか。
 たぶん、お姉ちゃんはその意味を知ってて私に貸してと言ったんだと思う。
 受験だけじゃない。他人から受ける悪意に、自分の気持ちにお姉ちゃんは打ち勝ちたいんだ。
 だったら――
 私はテーブルにあるリモコンを手にする。今の気持ちを上手く言葉では伝えられないけど、歌で励ますこと位はできるかも。そんなことを思いながら。
 やがてスピーカーから明るい音楽が鳴り始めた。

(競作小説企画第八回「夏祭り」参加作品)