湧きおこる感情の、その名前


 夏休みを翌日に控えたその日、私は進路指導室に呼ばれていた。
「ここに呼んだ理由は――わかっているわよね」
 アラフォー世代の先生に問われ、私ははい、とだけ返事をする。先生から渡されたのは定期テストの成績をグラフに示したものだ。入学してからほぼ一定の範囲を浮遊していた線が前々回のテストから急降下している。これは席次にして三十番ほどの後退となる。これまで校内で十番以内をキープしていただけに、この陥落ぶりは先生の目に余るものがあったらしい。
「見てのとおり、三年になってからあなたの成績が下がっているの。これを見てどう思う?」
 確かに、この成績はまずい。これは私の人生の中で最悪の事件だ。水分補給にと麦茶をすすめられたけど飲む気も失せる。部屋の角に置いてある扇風機が参ったとばかりに羽根をくるくると回していた。
「このままだとあなたの志望希望を考え直さなければならないんだけど――どうしたの? 最近何かあった?」
 そう言って先生は私の顔を覗きこんだ。より近づいたせいで化粧の匂いが目と鼻を刺激する。私はたまたま体調がすぐれなかっただけです、と冷静を装う。渡された成績表を返却した。そっけない私に先生は疑いの目を向けていたが、最終的にはそう?と言うだけで、深く突っ込むことはなかった。高校は義務教育ではないから己の判断に任せようとしたのかもしれない。
 そのかわり、悩み事があるのなら相談に乗るわよ、と声をかけてくれる。先生の気遣いはとても嬉しかった。けど私は大丈夫ですから、とやんわり突っぱねる。
 次の試験で挽回できるよう頑張りますから、と告げると一礼して進路指導室をあとにした。扉を閉めた瞬間、どっと疲れが押し寄せる。
 先生には話していなかったけど、実は先日校外で受けた模試でもC判定が出ていた。これまでA判定をキープしていただけにその結果はショックだった。この一件で私のモチベーションはことごとく粉砕され、無気力になってしまったのだ。
 それでも家に帰れば無理やり教科書や参考書を開いて問題を解いていくしかない。私は縁起をかつごうと毎回得意科目から手をつける。基本中の基本を解いて自分に自信をつけようとするけど、つまらないミスをして更に焦ってしまう。今度こそはと過去問に手をつけてみると、そこでもまたミスをしてしまう。集中力のない自分を責めているうちに夜は更けていき、睡眠時間をどんどん削られるのだ。おかげで今頭がとても重い。
 私は血の巡らない頭を抱えながらのろのろと歩く。すると昇降口の手前で男女の集団に出くわした。男女――と言ってもその比率は極端で、男一人のハーレムといってもいいだろう。輪の中心にいる男はクラスメイトで、よく見知った顔だった。私は彼らからそっと視線を外す。それでも会話は嫌と言うほど耳に届いてくる。
「鎌田って進学希望? 私もそこ受けるから大学教えてー」
「ずいぶん簡単に言うな。俺のこと馬鹿にしてるだろ?」
「少なくとも鎌田よりは頭がいいもんねー。何なら私らがまた勉強教えてあげよっか?」
「俺を馬鹿にする奴に教えてもらいたくもねぇー」
「じゃあ息抜きしよーよ。明日から夏期講習始まるから今日ぐらい明るくぱーっといかない? カラオケは? 歌ってモチベーション上げようよぉ」
「それなら単語の一つ覚えてる方が有意義だ」
「鎌田付き合い悪すぎ。最近冷たくなーい?」
 つれない男に苛立つ女子たち。すると鎌田はそりゃ馬鹿ですからねぇ、と自虐に走る。
「馬鹿は馬鹿なりにやってるから休む余裕なんてねぇっての。つうかくっつくな。暑いしうざい。俺の前からとっとと消えろ」
 そう言って鎌田は取り巻く女たちを振り払う、そんな姿を私が黙って見ていると、ふいに目が合った。鎌田の眉がぴくりと動く。何だよとでも言いたげな視線に私はきゅっと唇を結んだ。
 いつもの私だったら、廊下を塞ぐ彼や彼女たちに軽蔑の目を向けていただろう。邪魔だからどいて、と言っていたかもしれない。でも今はそんな余裕すらなかった。
 私は床に視線を落とすと比較的スペースの空いている窓際に寄り、早足でその場を通り過ぎようとする。途中で足がもつれた。一瞬意識が飛んだのは連日の睡眠不足のせいだろうか? ふいに名を呼ばれ、私ははっとした。声をかけたのが誰なのか――見なくても分かる。全身の毛が逆立つ感覚に私は震えた。
 だめだ。目を合わせちゃいけない。
 私は自分を奮い立たせると、彼らの前から走って逃げた。
 
 

 ***
 
 

 私は無我夢中で走る。気がつくと私は学校を飛び越え、通学路の途中にある大きな公園の中にいた。そこはよっぽどの事がない限り足を踏み入れることのない場所だ。
 今日は雲ひとつない快晴。灼熱の太陽がじりじりと大地を焦がす。このままでは日焼けどころか火傷してしまいそうだ。蝉の声が暑さを更に引き立てる。さっきもお茶を飲みっぱぐれたし、このままでは熱中症になるのも時間の問題だろう。私は暑さをしのげそうな場所を探した。途中、売店の前にある自販機でジュースを一本買う。木陰に佇むベンチがひとつ空いていたのでそこに腰を下ろした。ペットボトルの蓋を取り体内に取り込むが、液体は汗に変化するだけで、体の火照りはなかなか収まらない。こんなことならジュースじゃなくて、売店で売ってたすいかアイスにすればよかったと私は思う。もう何もかもがついてない、そんな気がしてならない。
 私はまたひとつため息をついた。いっそのこと、このまま溶けてなくなってしまえたらどんなに楽だろうか。成績は下がる一方。来月からは塾の夏期講習が始まる。やるなら今とテレビで何度言われ奮起してもことごとく潰され士気がそがれる。私のやる気スイッチは未だに故障したまま、混沌をさまようばかりだ。
 そんなことを考えながら伏せっていると、りぃん、と鈴が弾ける音が耳に届いた。目の前にボールが飛んでくる。ビニール製のそれは涼しげな音を立てながら地面をバウンドし、私の座っている椅子の下に潜り込んだ。
 私はのろのろとした動きでそれを拾う。飛んできたであろう方角を見すえた。しばらくの間待ってみたが鈴入りのボールを取りに来る人間は一向に来ないし、こっちに投げてと声をかける人もいない。
 仕方なく私はボールを持って歩き出した。持ち主を探すべく、飛んできた方向へ向かう。すると噴水広場の入り口に一人の少年が立っていた。公園内にある無料プールから移動してきたのだろうか。少年の服装は海水パンツ一枚だ。少年の顔はぼんやりとしか見えず、これだという特徴が掴めない。でも何処かで会ったような――そんな気がする。
「このボール、君の?」
 私は持っていたボールを少年に見せる。少年は違う、と言って首を横に振った。
「もしかしたらあっちにいる誰かのものかもしれない」
 そう言って少年は広場の中心を指した。そこにはタイル張りの小さくてなだらかな山がひとつあり、その周りを水が薄く張ってある。噴水はその山のてっぺんから出るようになっていて、少年よりもはるかに小さい子どもたちが頂上でその瞬間を待っていた。土足厳禁と書かれていたので私は素直に従う。靴下を脱ぎ生足を見せると、ローファーと共に広場の片隅にあったビーチサンダルの隣りに置いた。そのあとスカートのウエスト部分を折りこんで丈を短くする。こうすることで、服がぬれるのを最小限に抑えた。
 くるぶし丈ほどの水辺を歩き始めると、ちょうど水が出ることを知らせる警告音が鳴る。広場の中央から水が噴出すると少年は私の手を引きそちらへ向かった。
 山のてっぺんから噴き出る水は火山の風景にも似ている。吹き出す水に恐る恐る手を伸ばす子もいれば、タイルに滴る水を手で叩く子もいる。噴水の水をバケツに汲もうと果敢に体を近づける子もいる。
 私がそれぞれの姿を微笑ましく見ていると、突然少年が数個ある噴水の吹き出し口のひとつを足で押さえた。天上に向かっていた水がぐにゃりと曲がって私を襲う。突然の攻撃に私はうろたえた。全身に水しぶきを浴びた私を見て、少年がやったとばかりに笑っている。その高らかな声にムッとした私はお返しに拾ったボールを投げつけた。ボールは少年のおでこに当たると、少年は体制を崩し横転する。すると今度はすべての吹き出し口がふさがれてしまい水は霧のように拡散した。今度は私だけでなく周りの子供たちにもしぶきが広がる。小さな虹が広がると、私はもちろん、子供たちからも歓声が湧いた。
 それから私は少年としばらくの間遊んだ。小さな山を滑り台にして下りてみたり噴水の上でボールを転がしてみたり。他の子供たちから借りた浮き輪を使って輪投げもどきもした。
 ひととおり遊んだ後で、私は前髪に滴る雫を指先ではらう。濡れたブラウスからはインナーの黒い生地がすけて見えてしまったけど、下着が見えているわけじゃないし――この炎天下だ。すぐに乾いてしまうだろう。
「楽しい?」
 少年に問われ、私はそうね、と答える。こんなに大声で笑ったのは久しぶりだ。
「すごく楽しい」
 私の笑顔を見て少年も笑った。最初はぼんやりとしていたはずの少年の顔立ちがいつの間にかはっきりしてくる。それが知っている人と被った瞬間、私の心は強く揺さぶられた。気がつけば、周りにいたはずの子供たちの姿はない。
 少年は私の顔をそっと覗きこむとこう言った。あのね、素直になるってのは恥ずかしいことじゃないんだよ、と。
「楽しいってときは『楽しい』って言えばいい。さびしい時は『さびしい』って、怖い時は『怖い』って言うんだ。頭で考える前に言葉にして。そうすれば心が軽くなるから」
 じゃあね、そう言って少年は噴水の向こう側に消えてゆく。私は少年の名を口にしようとして――めまいを覚えた。帽子もかぶらずにいたせいだろうか。足元がふらつく。二歩、三歩と歩くと膝ががくりと折れてしまう。そこで私の意識はぷつりと途絶えた。


 ***


 次に目を覚ました時、私はベッドに横たわっていた。ゆっくりと体を起こす。すぐそばにある窓からは学校のグラウンドが見えた。私は思わずえ、と声を上げてしまう。
 なんで? さっきまで公園にいたはずなのに。なんで学校にいるの?
 起きぬけの頭で疑問を巡らすと起きた?と誰かが問いかける。声のする方をみやると、先ほど学校の廊下ですれ違った鎌田がいた。私の心臓がどくりとうずく。
「廊下で突然倒れたんだ――睡眠不足からくる貧血だって」
 問うより先に、鎌田は私の知りたかった答えを述べてくれた。そして私は全てを理解する。確かに学校で鎌田とすれ違った後に私の記憶は一瞬途切れた。自覚はなかったけど、あの時すでに私の意識は飛んでいたのだ。つまり、公園にいたこと自体が夢で――
 最初から乾いいていた制服をしみじみと眺めながら、私は夢の内容を振り返る。公園で会った少年はたぶんでなくとも鎌田だ。彼は最初から私の心を見透かしていたような感じで私に接していた。そりゃ当然だ。あの少年は私が作りだした幻影なのだから。
 ベッドの上で私が小さな笑みをこぼしていると、いいことでもあった? と鎌田が聞いてきた。
「寝ながら声あげて笑ってたけど。何か楽しい夢でも見てた?」
「え? 声上げてた?」
「いーっひっひって」
 夢でみたのと同じ、悪戯っ子の笑みに私の頬が赤く染まる。思わずやだ、と声が出た。私が両手で頬を隠すと、鎌田が声を上げて笑う。
「うそうそ。笑ってはいたけど、声は出してなかったって」
 鎌田はしばらくの間笑っていた。そして笑いの波がおさまるったあとで、よかった、と呟く。
「新條の笑顔が見れて安心した。最近元気なさそうだったから。ずっと心配してたんだ」
 安堵の表情を浮かべる鎌田に私は戸惑った。だって、こんな風に喋ることはもう絶対にないと思っていたから。私の中で驚きと切なさがじわりとにじむ。覆っていた手をゆっくり下ろすと鎌田を見上げた。
「その、運んでくれたのは鎌田、なんだよね?」
「そうだけど――やっぱ迷惑だった?」
 何だか申し訳なさそうな声だったから、私は首を横に振る。小さな声でありがとうと呟いた。そっと顔を上げる。鎌田が目を細めている。その優しい眼差しは今の私にはとてもまぶしい。だから私は再び目を伏せるしかない。
 その先の言葉が続かず、少しの間が空く。すると鎌田はこんなことを言い出した。
「実は新條に話があって――目を醒ますのを待ってたんだ」
「え?」 
「あのさ、もう一度俺に勉強を教えてくれないか?」
 鎌田の願いを聞き、私は全てが始まりに戻ったのではないかと錯覚する。そう、今目の前の事全てが夢の続きじゃないのかと。
 私と鎌田には確執がある。全ては半年前――鎌田の試験勉強を見たことから始まった。
 あの時の私は自分でも言うのも何だが、性格が悪かったと思う。自分の成績の良さを振りかざして頭の悪い人間を見下していたのだから。成績の底辺を走る鎌田のことも例外に漏れず、最初は適当にあしらうつもりだった。けど鎌田は私の予想を裏切るほど真摯で、教える側の私も真面目に向き合うしかなかった。それは見た目で人を馬鹿にしたことに対する贖罪にも等しい。
 勉強を教えてくれたことを、鎌田はとても感謝していた。それから進級して同じクラスになって、鎌田と絡むことが増えた。鎌田は外見も派手目で女子に人気がある。最初はその人なつこさから、自分はからかわれているだけかと思っていた。でも鎌田は――
 鎌田に告白される直前、私は振り向きざまにキスをされた。触れたのはほんの一瞬だったけど、それを思い出すだけでも背中がぞくぞくして、甘くくすぐったい気持ちになる。
 この胸の中で渦巻く感情が何なのか、私は知っている。私は鎌田に惹かれている。なのに私は自分の気持ちに素直になれなかった。恋することで今までの自分が壊れてしまうのが怖かったのだ。私はその得体のしれないものから解放されたくて、ある日一緒に居るだけで迷惑だと、もうやめてほしいと言って突っぱねた。鎌田に俺のこと嫌い? と聞いて頷いてしまったのだ。
 私は人の気持ちを踏みにじった――いわゆる悪役だ。それでも鎌田は私にまた勉強を教えてくれないか、という。言葉を咀嚼した瞬間、私の中でこれまでの事がぐるぐると渦巻いた。そして最初に突いた言葉はあの時と同じ、どうして? の一言だった。その反応に鎌田は少し困ったような顔をする。
「新條が俺のこと嫌いなのは分かってる。俺の言ってることが凄い迷惑だってことも。でも、今はなりふりかまってられないんだ。俺んちは経済的に余裕ないし、大学目指すなら現役合格って思ってる。だから新條、俺に力を貸してくれ。一日三十分で構わないから、一緒に勉強をしないか? 分からない所を教えてほしいんだ」
 頼む、と希う鎌田は真剣だ。だからこそ私は混乱する。
「どうしてそんなに簡単に頭を下げることができるの? 私は鎌田にひどいこと言ったんだよ。なのになんで」
「プライドのない奴だって、そう思ってる?」
 私は首を横に振った。そうじゃない。鎌田は最初から自分の感情を抜きにして人と向き合う事が出来ていた。それはとても立派なことだ。だからこそ自分のふがいなさが目について仕方ない。
 言い訳を許されるというのなら、あれは本心から出た言葉じゃなかった。あれからすぐに誤解を解こうと思ったけど、私の中にある自尊心がそれを邪魔した。なんでそんなことを気にしなければならないんだ。今はそんなことしている場合じゃない。勉強に集中すべきだろうと。
 なのに、そう思えば思うほど鎌田の事がちらついて、他のことに手をつけることができなくて。
 鎌田のことが嫌いなんて嘘だ。自分の成績が下がった理由は痛いほど分かっている。でもそれに触れたくなくて、認めるのが怖くて、私はずっと逃げていた。それを鎌田に知られてしまうんじゃないかって今もびくびくしている。本当の私は見栄と臆病の狭間で揺れているだけの、ちっぽけな人間だ。
「違う。鎌田は何も悪くない。悪いのは私で――こんな自分嫌なの。大嫌いなの」
 だからそんな目で見ないでと私は切に願う。でも鎌田はそんな私から目を離さない。
「あのさ。どうしてそんなに自分の事が嫌いなの? そんなに嫌な奴だと俺は思わないけど」
「人にどう思われても、私は嫌なの。もう死んじゃいたい」
「やめろよ」
 ふいに鎌田が言った。真っ向から否定され、私の体がびくりと揺れる。悲しげな瞳が私を貫いた。
「死にたいなんて、簡単に言わないでくれ。そんなのすげえ悲しくなるから――止めてくれ」
 鎌田の真剣さに私はそっと唇をかむ。ごめんと呟いた。しばらくの間静けさが襲う。やがて鎌田が口を開いた。
「少なくとも俺は新條を好きになったことを後悔していない。それだけの価値がある人間だと思った。だから――」
 そこで鎌田は一旦言葉を切った。無意識に手で口を塞ぐ仕草を見て、私は鎌田が言いかけた言葉の先を悟る。熱が再び全身を駆け巡った。
 今ももうひとりの私が囁いている。恋などにうつつを抜かしている場合かと。今は将来を決める大事な時期。こんなやつのことは放って自分の事だけに集中しなさいと。でないと一生後悔するはずだと。
 でも――
 私は小さくかぶりを振った。このままでいたら五年後、十年後の自分はどうなっているだろう、と想像する。この先成功しても失敗しても自分の歩んだ道を誇れるのだろうかと。おそらく私は自分のことを嫌いになるんじゃないか。あの時何も言えなかった事を一生後悔するんじゃないだろうか。そんなのは悲しい。そんなのは嫌だ。
 私は頭の中にあるノイズを払う。この胸に湧きおこる感情を伝えなきゃいけないと思った。それはとてもとても大切なこと。一度に全部伝えるのは難しいかもしれない。それ以前に鎌田は怒るだろう。でも私はそれを受け止めて一つ一つ言葉を紡ぎ出そうと思う。今の私にはそれしかできないのだから。
「鎌田」
 私は恐る恐る名を呼んだ。
「あのね、あのね。私、本当は――」




 こちらはsagittaさん主催 競作小説企画第七回「夏祭り」参加作品です。
 (使ったお題) 化、扇風機、麦茶、夏期講習、すいかアイス、ビーチサンダル、霧、雲、日焼け、生足、蝉