短編

交換条件

 もうそんな季節か――
 水沢の髪に引っかかった花びらを見て、私はぼんやりと思った。
 最近は、彼の髪の毛から白いものを数えるのが日課になっている。日々増えていく白髪を見ながらほくそ笑んでいるわけだが、かわり映えのない日々を過ごすうちに季節を忘れてしまった。きっと無意識のうちに忘れるようにしていたのだろう。
 それにしても桜がもう散り始めているとは……一体どうしたものだろう。
 誘拐されたのが正月明けだから、約三か月も私はこの部屋で監禁されていることになる。普通に考えれば私は物騒な目に遭っているとも言えよう。
 だが、ここでの生活は意外にも快適だった。
 もとがホテルの一室なのでシャワーもベッドもある。テレビやインターネットが使えないのは残念だが、注文すれば衣類も買ってきてくれたし酒も飲むことができる。最近ではレトルトや出来合いものだと栄養が偏るからと、この部屋で料理を作ってくれることが多くなった。
 今日は私を閉じこめた「組織」の一員である水沢が水揚げされたばかりの魚をさばいて刺身にしてくれるらしい。それはそれで、とても興味があるのだが――
「水沢。私をいつまで閉じこめておく気だ?」
「さあ、いつまででしょうねえ……こっちとしてはいいかげん、要求をのんでもらいたい所なんですけど」
 そう言って水沢はまな板の上に包丁を叩きつけた。乱暴に首が落とされる。口調は穏やかなだが、どこか醒めていた。
 私は口元を歪ませる。
「悪いが、強情なのが私の取り柄でね」
「ですよねー。なので今日は奥の手を使うことにしました」
「奥の手?」
 水沢はズボンのポケットから携帯を取りだした。それは私がここに監禁される時に取り上げられた携帯だった。
「長いこと家を空けていたから、本当はずっと気がかりだったんじゃないですか?」
 待受画像を見て、私はうっ、と言葉を詰まらせた。そこには世界で一番愛している彼女の寝起き顔が映っている。
「ゆりちゃん、相変わらず美人ですよね」
「……あいつに何かしたのか?」
「やだなあ、人聞きの悪い。こんな情況だから、ボスの家に来てもらっただけですよ」
 冗談じゃない。ただでさえ、ゆりは繊細だというのに。あんな野蛮の住む家に閉じこめられているなんて。
 それは私にとっても耐え難い屈辱だった。しかもあいつはゆりのことを密かに狙っている。もし、私がいない間に彼女をかどわかすようなことをしていたら――
 想像して血の気が引いた。ぶるぶると首を横に振る。
「言っておくが、ゆりのお腹の中には子どもがいるんだ」
「知ってますよ」
「もし危害でも与えたら許さないからな。ぶっ殺してやる!」
「――いいかげんにしてください!」
 罵声が耳を抜けた。私は思わずひるんでしまう。水沢の右手にはまだ血のついた包丁が握られたままだ。
「だったら自分が何をすべきかちゃんと考えて下さいよ! 何度言ったら分かるんですか?」
 包丁をかざす水沢に私は息をのんだ。
「いいですか? これは交換条件なんですよ」
 濁った白目にはすでに血の網が張られている。口元に浮かべた笑いが引きつっていた。凶器を持つ手が震えている。
 一瞬でも間違えたら殺される――本能が感じた。
 ここは腹をくくるしかない。
 窮地に追いこまれた私は水沢の条件をのむしかなかった。

 ◇

「はい。確かに受け取りました」
 数時間後、水沢は満面の笑みを浮かべていた。その手には原稿用紙の束――
「籠城はもう勘弁してくれ……」
「だったらさっさと原稿上げて下さいよ。締め切りは守らないわ三ヵ月も原稿落とすわ……先生は何年作家やってるんですかっ」
 私は肩をすくめた。集中力を一気に使い果たしたせいか、頭がぐらつく。これ以上水沢の説教を聞く気力さえなかった。
 そこへタイミング良く携帯が鳴る。
「先生! 今家から電話で――ゆりちゃんが破水したそうです」
 その一言で目が醒めた。
 行きましょう、と水沢が促す。着の身着のまま、私たちは部屋を飛びだした。ホテルの廊下を抜け、ロビーへと向かう。
「今車を回します。ロータリーで待ってて下さい」
 車のキーを手にした水沢が先に走り出した――が、途中で一度振り返る。
「先生。約束通り、ボスのお嫁さんに一匹下さいよ」
「もちろんだ」
 私は返してもらった携帯を開く。そこには女猫がとろんとした目で私を見つめていた。
 ホテルの自動ドアを抜け、三ヵ月ぶりに外に出た。肌に温かい風。季節の変化をこの身に感じた。久しぶりに見上げる夜空には雲一つない。月が満ちている。まるで新しい命の誕生を優しく見守っているかのようだ。
 私は水沢が車を回している間に煙草を一本だけ吸うことにした。肺に吸いこみ、はやる気持ちとともに煙を吐き出す。心を落ち着けた。
 愛猫が今夜母親になる。
 何匹生まれるかは神さまに任せるとして――まずは名前だな。
 私はそんな事を思いながら天を仰いだ。


(「ぶんごうどおりの避難所」第二回写小説投稿作品)
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