……廊下を歩いていると背中に重苦しい気配を感じた。
それはあたしにとって殺気とも呼べるもの。
ぶるり、と体が震える。
このまま無視してしまおうかと思ったが――
「宇佐美」
その声を聞いてしまった以上、あたしは立ち止まるしかない。
振り返った先にあるのは身長一八六センチの巨体――というよりは壁。
眉間に皺を寄せているのは男子バレー部に君臨する最恐のアタッカー。
ひとにらみすれば泣く子も黙る鬼瓦(オニガワラ)――もとい、大河原先輩だ。
予想通り、先輩は仁王立ちであたしを待っていた。
「どうして朝練に出てこなかった」
理由を問われ、あたしは口ごもる。
先輩の顔が見たくなかったんです――とはもちろん言えるわけがない。
「その、寝坊しちゃって」
「ほぉ……」
「朝からおなかの調子が悪かったっていうか。その……」
「へぇ」
先輩の視線はあたしの胸元へ移っていた。
そこにあるのはさっき購買で買ったパンが四つ――あたしの胸にしっかりと収まっているわけで。
「腹の調子、悪いんだ」
先輩のオウム返しにあたしは固まる。
すごみのある低い声、高い位置で結んだあたしのテールが今にも逆立ちしそうだ。
先輩がこんな声を出すのはつまり――めちゃくちゃ怒ってる時なわけで。
やばい、ばれてる。
あたしが嘘をついたの、絶対ばれてるっ。
「え、えっと……その」
焦りがつのると、額から汗がだらだらと流れてきた。うつむいた顔をあげられない。
どうしよう。
こんな時は――
「どうぞっ」
買ったパンを押しつけるに限るでしょう。
あたしはくるりと踵を返すと、さっきまで来た道を猛ダッシュで走った。
購買にたかる波に飛びこむ。
こう見えてもうちはマンモス校、昼休みの購買は戦場だ。
あたしは小柄な体を生かして人の間をすりぬける。
大量の人波に逆らえるなんて、あたしってば水泳部に乗り換えても結構いけるんじゃないの――
なんて冗談、かましている場合じゃない。
先輩、後ろからものすごい勢いで泳いでくるし。
つうか、先輩の勢いに人が引いて、モーゼの十戒状態だし。
ひいっっ。
あたしは混乱という名の川を横切ると階段を一気にかけ上がった。
いったん最上階までたどりつき、棟の端にある反対側の階段で一階ぶん降りる。
連絡通路を抜けてから三年の教室の前を突っ切り、二階降りてまた連絡通路――今度は特別教室のある棟へと移る。
とにかく、先輩を巻くのに必死だった。
細かく動いたことでかく乱することができると思ったのに――
「げ」
さすがオニガワラ。鋭い眼は伊達についてない。
というか足、速すぎっ。
こうなったら、別の方法を考えなければ。
先輩の追走を避けるべく、あたしは理科室に飛びこんだ。
理科室は昼休みになると数人の先生たちが集まる。
ここでこっそり喫煙しているのは承知済み。
先生がいればあのオニガワラも簡単に手出しは――って。
先生いないじゃん。
なんで今日に限っていないのよおっ!
イレギュラーな事態にあたしはおろおろとしてしまう。
そうこうしているうちにも鬼の形相で先輩が教室にとびこんでくる。
「宇佐美っ!」
うぎゃあっ。
声にならない叫びとともに、あたしの体が跳ね上がった。
「何で逃げるっ」
「せ、先輩の方こそ何で追いかけてくるんですかっ」
長い机を挟んでの押し問答。
走った後のせいで、お互いの息づかいが荒い。
「追いかけるのはおまえが逃げるからだっ」
何で俺を避ける?
先輩の質問にあたしは肩を揺らがせた。
「俺は――」
言葉をためる先輩に体を一歩、引く。
やだ、そんな顔で見ないで。
そんなまっすぐな瞳で見られたら、あたしは――
「いやあああああっ!」
最大級の悲鳴が教室をつんざいた。
これがアニメか漫画だったら絶対天井に穴があいていたに違いない。
あたしは目に見えない波動砲をぶちかますと、理科室から飛び出した。
連絡通路を突っ切り、ホームグランドである二年の教室の前を駆け抜ける。
廊下の真ん中につっ立っている人たちを右へ左へと華麗にかわしていくが。
サッカーもバスケットもいけるかも、なんて思ってる余裕、あるわけがない。
今はひたすら先輩から――オニガワラから逃げるしかないのだ。
何故、逃げる?
そんなのは決まっている。
昨日、あんな姿を見ちゃったからだ。
走りながら、あたしは頭を抱えるように耳をふさぐ。
よみがえるのは昨日の放課後。部室の前でのこと。
耳に残っているのは先輩のまっすぐな心。
『好きだ』
あたしのもとに届いた声は心なしか緊張していた。
朱に交わった頬は夕日に染まっただけのものではないとすぐに分かった。
その言葉を聞いてしまった以上、あたしは先輩の気持ちを受け止めなきゃいけなかったのに。
あたしはそれが信じられなくて。
怖くて逃げてしまったのだ。
バカなあたし。
なんでそこで逃げちゃったんだろう。
そんなことをしたら、先輩が傷つくって分かっているのに。
せめて、そこで笑顔だけでも作れたら――こんな状況にはならなかったはずなのに。
胸がずきずきと痛む。
苦しみに耐えきれなくなって、走るペースががくんと落ちた。
本当は分かってる。
先輩は確かにオニガワラだけど――でも、決して怖いだけの人じゃないって。
自分を絶対に甘やかさないから他人にも厳しくできる人だって。
それを知ったのは自主練習で体育館を訪れた時。
あたしは万年補欠から抜けたい一心での朝練だったけど、先輩にとってのそれは日課であり、空気のようなものだった。
最初は挨拶だけだったけど、そのうちふた言三言交わすようになって。
気がつけば先輩はあたしの心もとない練習につき合ってくれるようになった。
先輩の指導は予想通りというか、めちゃくちゃ厳しかったけど――先輩は私の膝の柔らかさに注目してくれて、それを生かしたジャンプサーブが最大の武器になるって教えてくれた。
背が低いあたしでも、試合で活躍する場は必ずあると励ましてくれた。
だから、レギュラーを獲った時は真っ先に先輩に報告したんだ。
そうしたら先輩は一緒に喜んでくれた。
先輩は笑うと顔がくしゃってなるんだ。めったに見られない表情はとっても可愛くて――少しだけぎゅっとしたくなっちゃったんだっけ。
「はは」
完全に足が止まった所であたしはうずくまる。
床に落とした顔がどんどん歪んでくる。
やばい。このままじゃ泣きそうだ。
ただの思い出し笑いなのに、苦しくて切なくて――もう、頭がごちゃごちゃだ。
やだ。これじゃあたしが先輩を好きみたいじゃないか。
――みたい?
「違う」
あたしはかぶりをふった。
好き、なんだ。
あたしは先輩のことが――
そのまま、あたしは廊下で小さく丸まってしまった。
やがて、跳ねるような振動がこちらに近づく。
「宇佐美」
フィルターを通したような声。
肩を叩かれ、あたしは少しだけ体を揺らす。
怖いけど。
まだ心臓ばくばくいってるけど――
あたしは覚悟を決め、ゆっくりと顔を上げた。
てっきり首ねっこを掴まれたと思ったのに――
あたしを捕まえたのは先輩じゃなかった。
いや、先輩は先輩だけど。
いままであたしを追いかけてたオニガワラじゃない。
ひょろりとしていて、色白の頬。
フレームのある眼鏡が整った顔にすっきりと収まっている。
ふっと見せた笑顔は癒しとしか言いようがない素敵な彼。
この草食系こそ、大河原先輩の相棒であり男子バレー部の司令塔(セッター)。
日下先輩は何が起きたんだと言わんばかりに首をかしげている。
「どうした宇佐美? 具合でも悪い?」
「いえ」
あたしはのろのろと立ち上がる。
正直、ここでこの人に会いたくなかった。
だって……だって。
あたしの脳裏に昨日の風景が浮かぶ。
夕暮れのグランド、部室の前で聞いた告白。
オニガワラの前にいたのはまぎれもない、この人なのだ。
そう、先輩が今まであたしを追いかけていた理由はただ一つ。
秘密を知ってしまった第三者への口止めだ。
あたしはため息をついた。
ただでさえあの告白は仰天ものだったのに。
片思いの相手の好きな人が、実は「男」でした――なんて、どう思う?
あたしは思い出すだけでも頭ぐらぐらする。
大声を上げたくなる。
でも、実際は声すら上げられない自分がいた。
そのかわり、お腹がぐう、と悲鳴を上げる。
完全なるエンスト。
そういえば、買ったばかりのパンもあげちゃったんだっけ。
すると日下先輩が手持ちの紙袋からマフィンを取り出した。
「これあげる。調理実習でもらったやつだけど」
ライバルだけど。不本意だけど。
今だけはにっこりと笑う日下先輩が神に見えてならない。
草食男子はスイーツと優しさでできているのかな、なんてぼんやりと思ってしまったあたし。
こんがりと焼かれたきつね色を受け取り、お礼を言う。
一口かじった。
舌に広がる甘さに小さな幸せが広がって、ちょっとだけ泣きそうになる。
悔しいけど、美味しいよ。
感情がこぼれないうちに二口三口とついばんで誤魔化した。
「宇佐美はさ」
マフィンが半分お腹の中に入った所で、日下先輩は口を開く。
「昨日の話、聞いてたんだよね」
「……はい」
「どう思った?」
どう、って言われても。
昨日あたしが見たものは「許容範囲を超えた」だけでは済まされないものだった。
放課後の部室前。
友情という絆で結ばれたはずの男がふたり。
つたない告白。
きっと腐と名のつく女子ならその先をあれやこれや想像してきゃあきゃあ騒ぐのだろう。
ところがどっこい、あたしにとってそういう世界は地獄の底に渦巻くカオス。宇宙の果てにあるブラックホールであって一生出会うこともないもの。
こんな近所に転がっていたのは何かの嫌がらせとしか言いようがない。
うっかり視線が合ってしまったなんて、何という間の悪さだろう。
あのあと、あたしはその場から全速力で逃げた。
帰りに立ち寄った本屋でその手の本を読んで、一生懸命理解しようと努力してみた。
でも――ダメだった。
生物学上、男と言われるものが同性に恋をする。
そんなのありえない。
どう考えても神様の悪戯としか思えない。
当たり前のように男女がくっつくのがつまらなくなったから、遺伝子ひっくり返して遊んでいるんだ。
それで一喜一憂する乙女たちを見て、腹を抱えて笑っているんだ。
なんて性悪な神様。しがない女子高生の心を弄びやがって――ビックバンに巻き込まれて粉々になってしまえ!
って。
声を大にして言えたらどんなに嬉しいだろう。
あたしは答えに考えあぐねてしまう。
だからあえて、同じ質問を返してみる。
「先輩は――大河原先輩の告白聞いてどう思いました?」
「俺も最初は驚いたよ。でも、二人きりの時にあれだけあからさまだとこっちも気になるというか。だから俺は『オニ』に確かめたわけで、その返事がアレだったというか――まぁ、聞いてすっきりしたって所かな」
日下先輩の反応は意外にも淡泊だった。
予想外の出来事だったはずなのに、彼は思ったよりも心が広いらしい。
これも友情の賜物なのだろうか?
「これからどうするんですか?」
「どうするも何も。こういったのは当人同士の問題だから、ね」
日下先輩の口調はとても穏やかだ。
でも、あたしには部外者は口を出すんじゃない、と言われたような気がしてならない。
確かにそうなんだろうけど。
あたしはオニガワラの行く末が気になって仕方ない。
ふっと思い浮かぶのは男子バレー部にいるマネージャーの顔。
今食べているマフィンと同じ、ほんわかとした雰囲気を持つあの子は日下先輩の彼女だ。
二人は中学生の頃からの付き合いらしい。
日下先輩は彼女のことをとても大切にしている。
彼女は一連の事件をどう思ったのだろう。
「先輩の彼女さんは昨日のこと、知ってるんですか?」
「まぁね。オニのこと最初に気づいたのはあいつだし」
「え」
「なんかすっごい盛り上がってたよ。オニもいい所選ぶなぁ、ってほめてた」
「はぁ?」
予想外の反応にあたしはぽかんとしてしまった。
つまりそれは彼女さんの器が大きいということなのだろうか?
それとも腐のつくそっちの世界の人とでも――
いや。考えるのはもうやめよう。
どっちに転がったって、あたしの失恋は決定なのだ。
これ以上問答を繰り返しても、あたしがみじめになるだけ。
もう考えたくもない。
でも――
「お願いです。今回のことで大河原先輩のこと嫌わないでください」
気がつけばあたしは日下先輩に頭を下げていた。
「確かに、先輩の好みというか――そういう男の人たちの世界ってあたしには理解できないですけど。でも、先輩は本気なんです。だから軽蔑しないでください」
「え?」
「その、昨日のことは誰にも言いませんし――というか、聞かなかったことにしますから」
顔を上げる前にくるりと踵を返す。
日下先輩の顔を見ることもなく、あたしはまっすぐにのびる廊下を走りだした。
嗚呼。やっぱりあたしはバカなのかもしれない。
――その日の放課後。
あたしは体育館に通じる渡り廊下を重い足取りで歩いていた。
目指すは男子バレー部だ。
正直気が重い。
でもこれはふがいないあたしへの罰なのだ。
せっかくレギュラーを取れたのに、今日はその期待を裏切るような練習ぶりだったから。
屋外での練習で、ことごとくボールを落とすあたしに先輩には頭を冷やしてこい、と言った。
マネージャーからは、気分転換にとお使いを言い渡された。
その気づかいはとてもありがたい。
ありがたいけど。
今のあたしにとってこれは拷問でしょう?
こんな用事、オニガワラに気づかれないうちに済ませなきゃ……
あたしは嫌々な感じで最後の境界線を越える。
体育館は騒然としていた。
バスケや卓球の球の響き。部員たちの掛け声。体操部が奏でる音楽。
それでもスナップを利かせた音に反応してしまうのは、自分もそのはしくれだからかもしれない。
喧騒の中、バレー部の男子たちはレシーブの練習をしていた。
彼らが戦う相手はこの部で最恐と言われるアタッカー。ネットの向こう側で背筋を伸ばし腕を振る姿は美しい。
一瞬だけど、あたしは見とれてしまった。
先輩が打ったスパイクは重い音を立てながら、地に雪崩れていく。
ボールを拾えない部員たちに激が飛ぶ。
「てめえら、この程度の攻撃も返せねえのか? しっかりしろっ」
ぱっと見た感じ、いつもの練習風景と何ら変わりがない。
後輩の指導に夢中な先輩はあたしの存在に気づくこともない。
あたしはちょっとだけ安心すると、自分に一番近い距離にいるバレー部員に近づいた。
軽く挨拶を交わした所で、使いに渡された救急箱を渡す。
「ありがとう。助かったよ」
そう言って日下先輩は優しい微笑みを見せてくれるけど。
ごめんなさい。感謝の気持ちを今は素直に受け取れないかも。
用を済ませたあたしは返事もそこそこにして踵をかえす。
オニガワラが気づかないうちにさっさと退散――って思ったのに。
ふいに背筋がぞくりとする。
何だか嫌な感じ。
あたしは恐る恐る振り返る。
まさか。まさかとは思うけど。
背中に熱いものが刺さっている気がするのは――気のせいじゃなかったっ。
オニガワラがこっちに近づいているではないか!
「宇佐美」
「ぎゃあっ!」
先輩は普通に声を掛けてくれたというのに、あたしは思わず悲鳴をあげてしまう。
心臓が今にも飛び出しそうな勢いだ。
「な、なんの御用でしょうかぁ?」
そう、冷静を装って言ってみたつもりだけど。
心はどきどき。声は裏返ってるわ身体は震えるわ。空っぽになった腕は何故かファイティングポーズ。
あたしの中の対オニガワラ防衛装置が目下活動中。
先輩はというと案の定というか、あたしの態度に口元がひきつっている。
それでも先輩、おまえに話がある、と話を切り出してきたから大変だ。
あたしは必死になってかわそうと頭を巡らす。
「その。あたしはお使いで来ただけで……部活中に勝手に抜け出すのは――どうも」
「ああ、女子の部長にも話をつけてあるから」
そう呑気にいうのはあたしたちの様子をうかがっていた日下先輩。
げっ。何という手回しのよさ。捕獲する気満々じゃん。
つうか、このお使い自体が罠?
あたしの頭がぐるぐる回る。
その間にも先輩に腕を掴まれたものだから、あたしの警戒ボルテージが一気に上がって。
「ぎゃやああああああああっ!」
波動砲がまたひとつ、体育館の天井を突き抜ける。
あたしはひるんだ先輩の手を引きちぎると、一歩二歩と後退した。
恐怖と震え、完全な拒絶反応。
日下先輩やまわりの部員たちはと言えば何が起きたんだといわんばかりの唖然ぶり。
さすがのオニガワラも何かがぶつんとキレたらしい。
「宇佐美ぃ……」
ひいいっ!
「てめぇ、今朝からいい度胸してんじゃねえか!」
大きなコンパスを使ってあたしを追いつめる。
目の前の歪んだ笑い、近づく大きな壁。あたしは首を横に振った。
「ち、違うんです。これは……そのっ」
一生懸命言葉をとりつくろってみたものの、もとからある本能がそれを許さない。逃げろと頭のなかで警告を鳴らしている。
決定的だったのは先輩が再び手を伸ばした時だ。
あたしは膝を曲げ、体制を低くした。
先輩の右脇をすりぬけ、一歩を踏み出す。勢いに乗って前へ跳ねると、高い位置で結んだテールが宙に浮く。
もちろん、全てが無意識の行動だ。
もう、何が何だか分からないっ。
「いやあああああっ!」
あたしは自分をコントロールできないまま体育館を突っ走っていた。
目指すは対角線上にある倉庫。
あたしは猛スピードでそこまでたどり着くと、銀の取っ手を右に引いた。
空いた隙間に身体を滑り込ませると、扉をびっちりと閉める。内側からカギをかけて防御する。
って、何をやってんのよあたしってば!
自分の行動にこっそりツッコミをいれつつ、あたしは頭を抱える。
そうこうしているうちに、扉がけたたましく鳴り響く。
ドアをノックするのはもちろんオニガワラ。
「宇佐美、ここを開けろ!」
「嫌ですっ」
あたしはありったけの声で拒絶した。
こんな状態で顔を合わせるなんて絶対嫌っ。
「あたしのことなんか気にしないで……先輩は練習戻って下さい」
「気にしないって……この状態でそんなことできるわけねえだろっ!」
「できなくてもそうしてくださいっ」
「んな無茶な」
先輩はひとつ舌打ちした。
ため息をつくような息づかいが壁越しに伝わる。
「宇佐美」
少しだけ落ち着いた先輩の声に、あたしは反応する。
「おまえが俺から逃げるのは昨日のことが原因なのか?」
扉越しの質問にあたしは声を詰まらせた。
「そうなんだな?」
「……」
「確かに、驚かせたかもしれない。でも、あれが俺の本心なんだ。俺は――」
「ダメっ!」
あたしはその先の言葉を遮った。
ダメだ。その先を、人目のあるこの場所で言ってしまったら――辛い思いをするのは先輩じゃないか。
先輩が白い目で見られるのはあたしの方が耐えられない。
先輩の秘密、あたしが死守しなくてどうするっての!
あたしは声を張り上げた。
「あたし、誰にも言わないしっ。聞かなかったことにしますから」
「え」
「だからそれ以上言わないで!」
「……それ、本気で言ってるのか?」
「本当ですっ。だからあたしに関わらないで――これ以上近づかないでっ」
それが、あたしが先輩にできる精一杯だった。
騒がしかったまわりの音が急になくなる。
手のひらを返したような静けさがあたしを取り囲む。
今まであったはずのオニガワラの気配は、もうどこにもなくて――
もしかしたら、愛想尽かされちゃった?
あたしは扉に背中を合わせたまま膝を折った。
求めていた平穏がようやく訪れる。
鬼ごっこからようやく解放されて、ほっとすべきなのに。
どうしてだろう? それでもあたしの頭の中は、先輩のことでいっぱいだ。
ぐるぐる廻るのは先輩と一緒にいた時間。
あの優しさを足蹴にしたかと思うと頭がガンガンする。
くしゃっとした笑顔がもう見られないと思うと、胸が苦しくてどうしようもない。
そのうち、喉が渇いて痛くなってしまった。
この痛みを打ち消す方法はとても簡単なのかもしれない。
でも――
泣いてどうする。
泣いた所でどうにかなるわけじゃない。
なにも変わらない。何も始まらないのに。
「……っく」
あたしは落ちそうな感情をこらえるのに必死だった。
――どのくらいの時間そうしていただろう。
喉の痛みが少し和らいだころ、扉の向こう側が急に騒がしくなった。
やめろ、危ない、の声。どん、という盛大な音。
同時にあたしの背中に衝撃が走る。
なっ、何っ?
涙もそこそこに何事かとあたしは思ったけど――
振り返ったら倉庫の扉が手前に歪んでいることに気がついた。
ぎゃっ、何なのこれはっ!
本能の赴くまま、あたしはその場から離れる。
音は数回続いた。
そして分厚いはずの板はひしゃげて、最終的には取っ手についた鍵をも落とされる。
扉があっさりと開かれた。
「宇佐美ぃ!」
目の前に現れたのはオニどころかナマハゲばりの男の姿。その肩にはバレーのネットを引っ掛ける鉄の支柱が一本。
なんと先端が潰れていらっしゃる!
何ですか。この農民一揆ばりの攻撃はっ。
あたしが口をわなわなとさせていると、役目を終えた鉄柱はあさっての方向へ飛ばされた。
鈍い金属音。揺れる床。それ以上に驚いたのはオニガワラの変貌ぶりだ。
「てめぇ、『聞かなかったことにする』って。『近づくな』ってどういうことだ!」
ドスの効いた声はどうみてもカタギの人間には見えない。
追いつめられたあたしは身体をびくりと震わせた。
「答えろ! 俺のこと、そんなに嫌いなのか?」
直球の質問にあたしは首を横に振る。
そんなことない。むしろその逆。
だから困っているんじゃないか。
瞳に張られた涙がほろりとこぼれていく。
感情もつられてしまう。
ここまできて、あたしは乾ききってしまった唇を少しだけ開いた。
「あたし……先輩のこと嫌いじゃないです」
「じゃあ、なんで逃げるんだよ」
「あたしだって――逃げたくないっ。でも……」
「でも?」
問い返した先輩の声に私は言葉を止めた。
強面の顔を一度見上げたあとで、再びかぶりをふる。
「やっぱりいい……」
「ああっ、うざってえ! 言いたいことあるならハッキリ言え!」
先輩はあたしに向かって言葉を吐き捨てた。
嗚呼、どこまでまっすぐな人だろう。
その素直さが愛しくて、羨ましくて、憎らしい。
なんでこの人を好きになっちゃんたんだろう?
なんでこんな苦しい思いをしなきゃならないんだろう。
こんなにも一方的に責められて。
「どうして……」
あたしの半べそ顔が更に潰れる。
心のうちに溜まっていた堰がついに決壊した。
「何でそんなこと言うの?」
「宇佐美?」
「黙っててあげるって言ったのに。あたしのことなんか放っとけばいいじゃないっ!」
「何ぃ!」
「だって! 先輩は日下先輩のことが好きなんでしょう?」
「――は?」
「あたしはっ――あたしは、先輩の気持ち、理解しようとしたのに……そしたら頭の中ぐちゃぐちゃになって何も考えられなくなって。どんな顔していいのか分からなくて」
「おまえ、何言ってんだ?」
「何って。昨日、日下先輩に告ってたじゃない!」
勢いあまってとどめを刺してしまったあたし。
一瞬しまったって思ったけど、でも言っちゃったものは仕方ない。
でもどうよ?
先輩ときたらぽかんと口をあけて、瞬きを何度もして。おまえバカか? なんて言ってのけやがった。
あたしの声が更に跳ね上がる。
「なっ……バカとはなによぉっ!」
「つうか、俺が野郎とくっつくなんて、ありえねえだろ!」
「嘘だっ! あたし、ちゃんと聞いてたんだから」
「んなわけねえ!」
「アリだ。絶対アリぃっ!」
すると突然、空気がはじけた。
「ちょっといい?」
手を叩き、注意をそらしたのは、他でもない第三者。
後ろにはその人が一番大切にしている――彼女さんがいる。
「とりこんでいる所で悪いんだけど。誤解をひとつ解かせてもらっていいかな?」
まるで先生のような口調で日下先輩は言う。
あたしたちが呆けているうちに、草食男子はこの場の主導権をかっさらってしまった。
「宇佐美は昨日の話を聞いていた。そうだよね?」
「はい」
「そうなったいきさつは?」
「それは……」
日下先輩に対するオニガワラの態度がただならぬ雰囲気だったから、でしょう?
そう、涙声であたしは言葉を返すけど――
「そこ、微妙に違うんだな」
日下先輩は肩をすくめた。
「宇佐美、俺の話ちゃんと聞いてないでしょ?」
「え?」
意味が分からずあたしがぽかんとしていると、日下先輩はやっぱり、というような顔をする。
「ぶっちゃけて言うとね、俺ら宇佐美と一緒に朝練をしているのを何度か目撃してたんだ。で、相手が野郎ならともかく、オニが女の子にあそこまで親身に指導しているのは珍しいって、ウチの彼女さんが言ったわけ」
なぁ、と日下先輩が振り返る。
後ろでは同調するかのように日下先輩の彼女が何度もうなずいている。
「だから昨日、俺は『宇佐美に気でもあるのか?』って冗談で聞いたわけだ。なぁ?」
「ああ……」
「で? オニはなんて答えたんだっけ?」
日下先輩の問いかけにオニガワラが口ごもる。
何か迷うような仕草。先輩のそんな姿を見るのは初めてだ。
「あのさあ。ここ、一番重要なトコなんだけど。ちゃんと答えないと宇佐美、一生おまえから逃げまくるぞー」
それでいいのか? と日下先輩は首をかしげる。
するとオニガワラ眉間のシワが更に濃くなった。
そして、しばらくの静けさのあとで、固く閉ざした口をようやく開く。
「……好き、だ」
その言葉はか細いものだったけど、あたしの喉に引っかかっていた痛いものを落とすにはてきめんだった。
「つまりは、そういうこと」
そう言って日下先輩はにやりと笑う。
え? 今のは何?
好きだ、って……
わけの分らぬ展開に胸がどきどきして。
でも、なんとか言葉の意味を理解して。
すると、それに対する気持ちよりも今までの勝手な妄想とか、暴走ぶりが一気によみがえって――
ぎゃああっ。
喜びや安堵よりも恥ずかしさで顔が熱を帯びてしまう。
でも、あたしより顔を赤らめていたのはオニガワラの方だ。
「最初は要領の悪い奴だなって思ってた」
先輩の口からぽつり、言葉が落ちる。
「でもそんなの吹き飛ばすくらい、宇佐美は一生懸命で。俺のアドバイスにも正面から向き合って、真面目に取り組んでた。そんな姿見てたら俺、宇佐美のことすげえ応援したくなったんだ。だからレギュラー取れたって聞いた時……俺も嬉しくなった。笑ってる宇佐美の顔がすげえ可愛くて――その、ぎゅうっとしたくなって」
何? 今の発言は何?
後半の言葉なんて、あたしの気持ちそのままじゃないか。
そんな。先輩もあたしと同じ思いでいてくれたなんて――
「嘘だぁ」
あたしはその場に座りこんでしまった。
「ありえない。そんな、先輩があたしのこと好きだなんて。絶対――」
「アリなんだよ!」
先輩の声が耳をつんざく。
怒ったような声でめいっぱい否定するから、あたしの涙がぴたりと止まってしまう。
「その、おまえに限っては何でもアリっていうか、何っつうか、その」
そこで言葉はぷっつりと途切れた。
先輩が頭を抱えてしゃがみこむ。
しばらくの沈黙のあとで、先輩がああっ、と言葉を吐き捨てる。
「とにかく俺から逃げないでくれ。俺、宇佐美に無視されるのが一番怖い……」
「先輩」
他人に対して容赦なくて誰よりも自分に厳しくて。
ひとにらみすれば泣く子も黙るオニガワラ。
でも、本当は誰よりもまっすぐで、優しくて。
笑うと顔がくしゃっとなって、とても可愛いひと。
そんな人があたしに一喜一憂していたなんて。
この騒動のあと、先輩は体育館の扉を壊したことに関してきついお叱りを受けるわけだけど。
その間抜けな理由や、あたしのおバカな妄想が校内に広まるのはもっと先の話。
「先輩」
近づき、たくましい腕にそっと触れた。
同じ目の高さになった先輩をまっすぐ見つめる。
あたしの、ひとまわり小さい手のひらにあるのは小さな決意。
「あたしも先輩が好き」
「宇佐美……」
「今まで逃げてごめんなさい。でも、もう逃げません。ずっと先輩のそばにいますから」
この世は弱肉強食。
あなたが必要としているのなら、あたしは喜んで捕まってあげましょう。
呆けた顔をする先輩に、あたしはとびっきりの笑顔を見せた。(了)
BGM 「うさぎDASH」→Pia-no-jaC←
※この作品はフィクションです。実際の楽曲、演奏しているアーティストとは何ら関係ありません。
(「音楽をお題に小説を書く」企画参加作品 2009年10月18日 加筆)