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 ―The black world―(PG-12)

 バラの匂いがたちこめる。
 私がずっと前からバラ園に行きたいと話していたせいだろうか。初めてデートしたあの場所で白いバラの中に埋もれてしまいたい、そんなことを話していたら彼は笑っていた。バラには棘があるのだと言っていた。
 そんなことは知っている。バラなんて本当は興味がなかった。二人が一緒に行ったことに意味があっただけだ。あの時のままでいられればよかったのに、という感傷にすぎない。それなのに彼は私の言葉を鵜呑みにしたらしい。
 彼の作った演出が滑稽に思えて笑いたくなった。だが口元を上げるのもままならない。瞼だけではなく、顔のあたりにも「おもり」が効いてきたらしい。私は頭が落ちてしまわないよう、そして動かないよう堪えるのでせいいっぱいだった。
 ――身にまとっていた服を全て取り払われ、私は湯船らしきものの中にそっと沈められていた。
 湯気らしきものを感じる。ほどよく温められたお湯がすっと肌に浸透していくのが分かる。このまま溶けてしまいそうだ。強制的に閉ざされた瞼からは光の筋すら見つからなかった。
 時間が経つにつれ五感が研ぎ澄まされていく。光のない世界とはこんなにも静かなものなのだと、初めて知る。不思議な感覚だった。瞳を閉じただけの、夢とも現実とも言い難い世界に私は彷徨っている。そして自分に訪れるだろうその先を恐れず、ただ冷静に受け止めていた。
 それでも別の意味で後悔している。こんな事になるなら睡眠薬を減らすべきではなかった。医師でもある彼の指示通り、全部飲んでおけばこんな中途半端な世界を見ることはなかったのだ。全部飲んでいたら彼が飲み物にしこんだ「何か」と交わって確実に「逝って」いたはずだ。
 やはり私も心のどこかで光あふれる未来を探していたのだろうか。それとも、こうなる未来を危惧していたのだろうか――
 やがて手首にひんやりと冷たいものが走る。
 彼は名医だ。無駄に神経を傷つけて起こさないよう場所を選んでいる。やがて刃が皮膚にくいこむ感触を受け止めた。
 確かな痛みを感じたのは傷が温かい液体に漬けられた時だ。心臓の音と共に自分の中にある情報の全てが開放されていくのを感じる。赤いどろりとしたものが、水を吸って弾ける姿が頭によぎった。更に波紋を広げ、瀕死の遺伝子がゆらゆらと彷徨って、浮かんでいたまっさらな純潔を汚していく。
 まさに今、私の血が彼らを犯している。
 それでも彼らは気高さを失わないだろう。朱に交わった姿もまた素敵だと人は思うのかもしれない。それは少女が大人の女性になっていく課程によく似ている。
 ふと、ここに墨汁を垂らしてみたくなった。垂らして、かき混ぜて、焼いてしまえばいい。
 いつの間にか私の頭の中でフォンダンショコラが浮かんでいる。
 何故だろう。最後に食べたせいなのかもしれない。今日がバレンタインだと私はすっかり忘れていたのだ。私がひどく落ちこんでいると、彼がお土産にそれを差し出してくれた。バレンタインの意味がない、と私が毒づくと、彼は別にいいじゃないか、と笑っていた。
 切った瞬間どろりと出てくる黒い魔物は、どことなく私の腕から溢れてくるものに似ている気がする。


 ごおん、という音が耳をかすめた。
 やはり私は浴室にいるらしい。湯船の温度が下がったせいで自動追い焚き機能が動き始めたようだ。手首を切られてからどの位の時間が経ったのだろう。彼の気配はすでに消えていた。たちこもっていた湯気らしき感触は消え、頬に冷たい空気が触れている。
 私は先天性の病気で失明してしまった少女のことを思い出していた。
 肺炎で入院していた彼女は小学生二年生とは思えないほどしっかりしていていた。両親が共働きでなかなかお見舞いに来られなくてもいつもにこにこして、担当医である彼が大好きだった。
 そんな彼女に、私たちは取り返しのつかないことをしてしまった。軽い肺炎を起こした彼女に別の患者の薬を投与してしまったのだ。結果、彼女の脳には記憶障害が残された。つまり彼女はこれから何かを学び記憶したとしても、しばらくしたらその半分以上を失うというハンデを背負わなければならないのだ。
 病院にとって医療ミスは重大だ。マスコミも騒ぐし、信用問題にも関わってくる。事情を察した院長は彼を呼び出しこう問いかけた。この件を知っているのは他に誰がいる、と。幸か不幸か、その事実を知っていたのは彼本人と当時看護師をしていた彼の不倫相手――私だけだった。
 よしわかった、悪いようにはしないと院長は言ってその話は終わった。
 数日後、カルテは新しいものに変えられていた。彼女の両親には院長直々に説明があり、言いくるめられた。病院は全てをもみ消したのである。私も条件のいい病院への転勤を勧められたが、受ける気にもならず、そのまま逃げるように病院を辞めた。退職金は破格の金額だった。
 彼に一緒に暮らそうと言われたのはその頃からだ。思えば全て計画の上でのことだったのかもしれない。
 やがて痛みに呼応するように意識がとぎれとぎれになる。このまま黄泉の世界へと私は消えていくのだろうか。不思議と彼に対する恨みはなかった。嘘でも、彼の愛を感じ、彼の罪を背負って死んでいくのも悪くないと本気で思っていた。
 それでもひとつだけ心残りはある。
 死ぬ前にアイバンク登録しておけばよかった。そうしたら彼女の記憶障害を治すことはできなくても、目に光を与えてあげることはできたはずだ。彼女は私にとてもなついてくれたのに。私は彼女を裏切ってしまった。幼い少女の未来をつみ取ってしまった。
 今もなお、あの無邪気な笑顔が私を苦しめる。記憶に残った顔が何故、と歪むのを恐れている。
 ごめんなさい。
 声も出せず、唇だけ震わせた。頬にひとすじの涙が這っていた。
 やがて深く立ちこめる霧が近づいてくる。そのまま私は黒い闇の中へ吸い込まれていった。


 ――それからまた、どの位の時間が経ったのだろう。
 視界が開けると、白と赤のコントラストが広がる。右腕だけ水分を失っていた。手首から指の先まで伸びた赤い線が濃く映る。絵の具のようについた血はすでに乾き始めていた。どうやら浴槽の頂上に手を伸ばした瞬間、力尽きたらしい。浴槽からはみ出た腕は、だらりとぶら下がり側面に爪で引っ掻いたような跡が残っていた。
 ごおん、と音を立て、何回目かの追い焚きが始まる。
 私は己を恨んだ。
 看護師になんてならなければよかった。他人だけではなく、自分が負った傷も瞬時に把握して最善の治療方法を無意識に探してしまう。それが既に体に染みついてどうしようもない。生死の間際によぎった後悔と自分の本能が疎ましくて、私は少しだけ泣いた。
 しばらくして重く沈んだ体を無理矢理奮い立たせる。
 浴室を出てすぐ、バスタオルで体を覆った。洗面台の鏡に両手をつく。胃に残った気持ち悪さを全て吐き出した。冷たい水がしぶきを上げてそれらを流していく。沈む頭を持ち上げると死に損ないの老婆とも思える顔がそこにあった。白く浮いた体のあちこちに赤みを帯びた花びらがまとわりついて離れない。
 水を飲もうとコップを手に取ると側に服用していた睡眠薬があった。その隣に家で見たことのない製薬会社の薬がある。私は外箱に書いてあった成分表示で納得した。リン酸ジヒドロコデイン。彼はこれを使ったのか。
 ゆっくりとリビングに向かった。動くたびにはらりはらりと、溶け始めた薄紅のかけらがフローリングに落ちていく。彼はすでにもう一つの我が家へ逃げたらしく、部屋の電気は消されていた。決意の上での自殺だと思わせたかったのかもしれない。それを強調するかのように暗闇の中、パソコンの電源だけが入っている。
 ディスプレイは赤と黒で覆われていた。毒々しい色彩は浴槽の中にあったものを思わせる。死に神と天使が背中合わせに立っている姿は人間の中にある光と影そのもの。どうやら死について様々な意見が書かれた掲示板のようだ。
 最後に私の名前で書きこみがされていた。時刻は九時半。ちょうど彼がここに座っていた時間だ。

 投稿者 温海 XX/02/14 21:32
 これから薬を飲んで浴室でリストカットします。
 大好きな白いバラに囲まれながら天国へと旅立ちます。


 画面をスクロールすると、以前にも私の名前での書きこみがいくつかあった。どれも身に覚えのないものだ。おそらく彼が書いたのだろう。
 パソコンの中での「私」は何度も死のうと試みたが、なかなか成功しないと情熱的に語っている。それは今までの苦悩を綴った彼の自伝のようでもあり、言葉を変えたら私への犯行記録とも思えるものだった。ああやっぱり、私は腑に落ちた気がした。絶望も怒りもない。空っぽの隙間が広がっていくだけだ。
 私はしばらくの間ディスプレイをぼんやりと見つめていた。そしてキーボードに手を乗せる。

 投稿者 温海 XX/02/15 01:49
 結局、死ぬことができませんでした。素敵な舞台を用意してくれたのに、期待に添えなくてごめんなさい。
 でも安心してください。私はあなたを恨んではいませんし、あなたに復讐するつもりもありません。
 私は明日、旅に出ることにしました。あなたの知らない遠い場所へ私はいくつもりです。二度と会うことはないでしょう。
 今までありがとう。あなたを心から愛しています。

 送信を終えるとひらり、と花びらが舞い降りた。
 かさぶたが剥がれ、キーボードに赤い染みが残る。机に水たまりができていた。今の気持ち全てを言葉に変換したせいか不思議と穏やかな気持ちでいられた。
 パソコンから離れ、リビングに小さな明かりを灯す。エアコンをタイマー設定しておく。まとわりついた髪の毛を払いながら救急箱を探した。消毒し、ガーゼをあて、くるくると包帯を巻いていく。
 傷はまだしくしくと泣いていた。薬の副作用はとっくに切れているにもかかわらず、頭がぐらぐら揺れた。でも心配ない。これはただの貧血だ。
 彼は明日早番のはずだ。夕方までここを訪れることはないだろうし、この掲示板を見る暇もない。それまでここで休めばいい。あとは起きたときに考えればいい。
 濡れ鼠のまま、ベッドにもぐった。真っ白なシーツが私の全てを受け止めてくれる。ふわふわの毛布が天国にも似たまどろみの世界へと誘ってくれる。
 久しぶりにぐっすりと眠れる気がした。

               
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