―Bitter memory―
「智己、夕方になったら病院までおばあちゃん迎えに行ってくれないかしら」
朝ごはんを食べているとおふくろにそう頼まれた。今日は残業があるらしく、行けないと言うのだ。
もちろん部活がある俺は駄々をこねた。
「だったらタクシーにのせちゃえばいいじゃないか」
そう提案すると、お袋は首を横に振る。最近ボケがひどくなって必要以上のお金持たせられないのだと言うのだ。
この間も薬代出したのに別のことに使っちゃって払えなかったらしい。病院から電話あってこっちが恥ずかしい思いをしたのだと逆に愚痴をこぼされてしまった。
いよいよ雲行きが怪しくなる。おふくろに部活なんて休めばいいじゃない、と強く押された。
いや、そういう訳にもいかない。部活はどうでもいいのだが、特に今日は早く帰るわけにいかないのだ。
少なくとも――隣の陸上部の練習が終わるまでは。
俺が渋っていると弟の忠が助け船を出してくれた。
「だったら塾に行く前に僕が迎えにいくよ。一度家に帰ってからだから四時過ぎちゃうけど、別にいいよね?」
ふだんの兄が我が儘なだけあって優等生な弟に磨きがかかる。良くも悪くも忠は大人たちと俺を手なずける要領を得ていた。
おそらく忠の小遣いもうなぎのぼりなのだろう。そして俺は後で代行料を払うはめになるに違いない。
ため息をひとつついてから俺は学校へ行く準備を始めた。いつもより入念に身だしなみを整えコートを羽織る、余裕をもって出かけるつもりだった。
――玄関に一番近い部屋の扉がゆっくりと音を立てる。
俺の中に暗雲が再び立ちこめた。
扉の隙間から現れた人物はか細い声でおはよう、と言う。俺はそれより小さい声で同じ言葉を短縮した。
彼女は人がぎりぎり通れる空間しか開けず、そこで足を小刻みに揺らして前進する。足腰が弱くなったとはいえ、その姿は見ていてとても苛ついた。
「……これから学校かい?」
ゆったりとした口調がまとわりつく。
ばあちゃんはようやく俺の前まで歩み寄るとしわしわの手を差し出した。手のひらに四つ葉のマークが刻まれたお菓子がいくつか乗っている。
「ともくんあげるよ」
ばあちゃんは言った。
だが、歯を磨いた直後に甘いものなんて食べる気はない。
「ばあちゃん邪魔」
俺は短く言って玄関のドアを開けた。
「田辺最悪。冷たすぎ。超信じらんない」
自習時間、俺のこぼれ話を聞いて佐藤が毒づいた。佐藤の足の上で小さなハサミがじょきじょきとテーピングを裁いていく。俺はその様子を眺めながら、スカートの下にジャージがなかったら少しは色気のある風景を楽しめたのかもしれないのに、とこっそり思ってしまう。
「迎えはともかく、お菓子くらいは素直に受け取りなさいよ。血の繋がったおばあちゃんでしょ?」
「あほう。そのお菓子が賞味期限切れだから問題アリなんだよ」
言ってすかさず佐藤の頭に手を触れた。ぐしゃりと強引になでてみる。ひゃあ、と悲鳴が教室に広がり、俺と佐藤はクラス全員の視線を浴びた。
「何するんだ!」
俺はにやりと笑った。本当はその髪をかき回すタイミングをさっきから見計らっていたのだ。
佐藤が乱れた髪に手をあてる。ショートカットと呼ぶには短すぎる髪の毛たちは簡単に整った。
俺は話を続ける。
「佐藤は年寄りと一緒に暮らしていないからそんなこと言えるんだよ」
「そうかぁ? おじいちゃんおばあちゃんってかわいいと思うけどなぁ……」
「冗談。ばあさんなんてうざいだけだ」
会話は同じことの繰り返し。立てばふらつき、座れば転ぶ。歩く姿なんて怖くて見ていられないからこっちの方が神経をすり減らしてしまう。おぼえて成長する赤ん坊とも違うから厄介極まりないのだ。
まあ、そんなことはどうでもいい。
俺は佐藤の机の横に引っかかった茶色い紙袋が気になっていた。今日は同じような紙袋を持った女子が多いが、佐藤の紙袋は特別気になる。
教室を見渡してみると、男子の何人かは四角や丸い箱を手ににやけているのが伺えた。中に入っているチョコをついばむ者もいる。
そう、今日はバレンタインなのだ。
色々な意味で緊張するこの日に佐藤がそれらしき「もの」を持ってきたことは俺にとって重大事件である。
そういったのに無関心な佐藤が何故、それを持っていているのだろう。
俺は一度咳払いをして佐藤をひきつけた。不思議そうに俺を見る姿があまりにも無防備でどきっとしてしまう。
「なぁ、そこにある紙袋の中身なんだけど――」
「あ。葉月、あれ」
突然、後ろの席にいた足立が佐藤の頭を持って行ってしまった。佐藤につられ、俺も足立の示す先を見てしまう。扉の窓ガラスから先生の顔が見えた。その人差し指が左を指すと、佐藤が腕で丸をつくって返事をする。
「どうしたんだ?」
「自習時間のうちに三千メートルのタイムトライアル。今日部活休むって言ったら先生がやれってさ」
佐藤は椅子に足を乗せたまま、足裏に滑り止めの模様がついた靴下を履いた。
そういえば一週間後にマラソンの大会があると聞いた気がした。市内でやる小さなものらしいが、頑張れば入賞も狙えるらしい。
「今度の大会、来年度の部費を上げてもらう最後のチャンスだから先生も部長も気合いが入るわけよ」
じゃああとでね、そう言って佐藤はスポーツバッグを片手に教室を出ていった。佐藤の親友である足立が軽く手を振って見送る。
そうか。佐藤は今日、部活を休むのか。
「何でか気になる?」
俺の心を読んだのか、背後から足立が声をかけてきた。俺の体がびく、と反応する。
「いや……別に」
「ならいいんだけど。そうそう。これ私と葉月からの義理チョコね」
義理、という言葉が引っかかったが、とりあえず受け取った。
写真立てほどの透明ケースの中にミニチュアのゴルフバッグが入っている。しかも未成年が飲んではいけないとされるウィスキーの小瓶つき。どう見ても俺より年上の男性をターゲットにしたものにしか思えない。
「これ、どこで仕入れてきた?」
「母親がお客用に大量買いしてたから分けてもらったの」
「俺は飲み屋に来るオヤジと一緒か」
「あら。せっかく葉月を説得して田辺にチョコあげようってことになったんだから感謝くらいして欲しいわね。それとも、そこにある紙袋の中身がよかった?」
「……何だよ。話聞いてたんじゃん」
俺は口を尖らせた。聞かれたのは癪だったが、俺は恥を捨てることにした。さっきまで佐藤がいた場所に座り、足立を見上げる。
「なぁ。あれ、誰にあげるのか聞いてるのか」
「聞きたい?」
俺は頷く。足立のいわくありげな微笑みが広がった。
「さっき、どこかに電話かけてて、『今日は来るんですか』って尋ねてた」
「マジ?」
「放課後その人と会うんじゃないかしら?」
「誰だよそいつ。どこに来るんだよ」
「名前は聞いたけど教えない。気になるなら葉月に直接聞けば?」
できたら苦労はしてないさ、そう言いたかったが、口にしたら足立の思うつぼのような気がして止めた。
綺麗な顔をしておきながら足立は人を突き放す天才だと思う。
小悪魔の微笑みに俺はただ口元をひきつらせるしかなかった。
「――わかりました。公園に寄り道するって言ってたんですね。あ、大丈夫です。たぶん中央広場にいるんじゃないかな……」
ありがとうございます、と佐藤は言って携帯を切った。颯爽と歩く背中から五メートルほど間をおいて俺が追いかける。尾行している時の刑事か探偵気分と思いたい所だが、チキンな俺はストーカーがいいところ、なのかもしれない。
授業が終わると佐藤は教室を一番に飛びだした。駅まで歩き電車に乗って――俺がいつも使っている駅で降りると自宅とは反対方向の道を歩いていた。
そして今、マンション街を抜けた先にある緑地公園に足を踏み入れようとしている。
俺は紺色の背中を追いかけながらぼんやりと考えていた。
いつも明るくてあっけらかんとしていてふわりと温かい――真っ白なシーツそのものの佐藤がチョコをあげる男はどういった奴なのだろう。全く想像がつかない。
もやもやとした気持ちと不安を抱えたまま俺は佐藤の背中を追いかけた。公園の敷地に入り足元が石畳に変わる。
佐藤の側を学校帰りの少年少女が走り抜けた。そのひとりが、わあ、と空を指さす。指の先を佐藤が追いかけ、佐藤の視線の先を俺が追いかける。
真っ青な空に誰かが飛ばした白い風船がぽっかりと浮かんでいた。
風に乗り更にてっぺんをめざしていく。あっという間に宇宙に辿り着いてしまうのではないかと思うくらいの速さだ。俺は思わず見とれてしまった。
そして完全に見えなくなったところで、ふと我に返る。すぐに周辺を捜すが――遅い。
しまった。佐藤を見失ってしまった。
俺は最後に確認した場所に立った。そこから再びぐるりと見渡してみるが、特徴のある髪型は見つからない。
仕方ない。俺は佐藤が電話で話していた「中央広場」という所に向かうことにした。
近くにあった案内板を頼りに園内の舗装された道を走る。その場所はすぐに見つかった。
並木道が広がった先に東屋がある。その周辺をぐるりと囲むように小さな湖とゆるい段差がいくつかあった。ちょっとした舞台会場のように見えるその場所は人と鳥たちがふれあえる場所だと案内板に書いてあった。
だが、今鳥はどこにもいない。それどころかとても奇妙な光景が目に入った。
湖のほとりでぽつぽつと人が集まっている。大丈夫ですか、と男の声がした。とても切羽詰まった様子だ。
一体何があったのだろう。
遠くから眺めていると、東屋方面からすれ違った中年の女性がふっと言葉を漏らした。女の人が倒れているらしい、と。
通り抜けた情報に俺は息を飲んだ。まさか、と思う。足がその方向へと勝手に動き出した。
そんな、さっきまでその背中を追いかけていたはずだ。昼間だって三キロを全速力で走っていたではないか。その前も笑って、おどけて――
あの無防備な姿が脳裏に浮かぶ。
「佐藤っ」
人の波をかきわけ前に進んだ。視界がひらけ、その全貌が明らかになる。
倒れた人物の側にいる男はまだ四十代くらいの男だった。犬の散歩途中だったようで、リードを持ったまま様子を伺っている。繋がれた犬は横たわる体の匂いを嗅いでいた。
見えた服もその体型も佐藤のものではない。
だが――
唇が震えた。体中の血がすっと引いたのはほんの数秒だけ。頬が紅潮した。
「ばあちゃん!」
俺は介抱していた男を突き飛ばし、くの字に曲がった体を抱き起こす。犬がきゃん、と吠えた。
「ばあちゃん、しっかりしろ。ばあちゃん!」
ばあちゃんはぐったりとしていた。
皺を重ねた顔から血の気が失われている。寒さのせいか、ぬくもりが失われつつある。少し吐いたような跡もあった。
救急車、と叫んだのは誰だろう。俺かもしれないし、側にいた男かもしれない。通りすがりの誰かかもしれない。
いつの間にか俺の手が震え始めていた。興奮しているはずなのに、力が入らない。目眩すら感じてしまう。これが現実なのか夢なのか、それすら疑いそうになる。頭の中が真っ白になっていた。
引き戻したのは地面に何かがぶつかった鈍い音だ。
ばあちゃんを抱えたまま俺は振り返る。段差の少し手前に小さいお茶の缶が二つ、転がっていた。
その先に、呆然と立ちつくす佐藤がいる――
その後、ばあちゃんは公園のすぐそばにある病院に運ばれた。
そこはくしくも忠が迎えに行くはずだった所だ。忠はまだ来ていない。
与えられた病室でばあちゃんは眠ったままだ。ベッドに備え付けられているネームプレートには田辺シノ様と書かれたばかり。医者が俺に言葉を残して去っていく。どんどん冷えていく手が、その足が、俺に残酷な現実を突きつける。
とにかく、家族に連絡しなければならない。
外で電話をかけようと思いドアを開けると、廊下に佐藤がいた。
ずっとここで待っていたのだろうか。昼間にみた明るさはすでに消えている。
「シノさんは?」
佐藤から問われる。
だがその前に聞きたいことがあった。さっきからずっと引っかかっていたことがある。
「佐藤はばあちゃんのこと――知ってたのか?」
「うん。でも、田辺のおばあちゃんだとは思わなかった……今日はこれを渡すつもりで来たんだ」
佐藤は手に持っていた紙袋を俺に見せる。俺は目を見開いた。佐藤がチョコを渡そうとしていた人物――それが俺のばあちゃんだったなんて。
「あたし、この間疲労骨折やっちゃって、ここで診てもらったんだ。でもお金足りなくて――その時お金貸してくれたのがシノさんだったんだ」
そして次の診察日にお金を返したことで二人のつき合いは始まったらしい。待合室にいた茶飲み仲間たちがいつも下の名前で呼んでいたから、佐藤もばあちゃんのことをシノさんと呼ぶようになったという。
「シノさん、あたしにずっと孫の話してたんだ。上の孫は元気でサッカーが上手なんだって、下の孫は頭がよくてとても優しい子だって自慢してた。二人とも昔は私が手を引いて歩いていたのに、今は孫にひっぱられないと動けなくなっちゃったって笑ってた。やはり年なのかな、って言ってたよ」
そして息子夫婦にも迷惑をかけてしまっているのではないかと不安も漏らしていたそうだ。
「でも、シノさんはリハビリがんばって、また孫の手をひいて歩けるようになりたいって言ってた。昔みたいに家族みんなでお茶を飲んで、いっぱい話がしたいって。だからあたし、みんなでこのチョコ食べてもらおうと思って用意したんだ」
「そっか」
「シノさん……大丈夫だよね?」
不安げな瞳が俺を見上げる。
大丈夫だ、とは言えなかった。
脳の血管が切れてしまって頭の中が血で浸されて、もう施しようのないところまできてしまったらしい。よくても一晩がせいいっぱい。今のうちに家族と親戚を呼んだ方がいいとさっき医者から告げられた。
ばあちゃんのささやかな夢は叶わない――
俺が返事できずにいると、佐藤がうつむいた。俺の表情から何かを悟ったのだろう。黙りこんでしまった。
佐藤もまた自分のせいだ、と思っているのかもしれない。自分がもっと早くに会っていたら。気づいていたら。それは俺も同じだった。
このままではお互い自分を責め続けてしまうだろう。
「佐藤、もう帰ってもいいよ。俺一人で大丈夫だから」
俺は笑顔を作った。佐藤に悲しみと不安を残させたくなかった。むりやり声のトーンを上げる。今まで顔が強ばっていたせいか耳の下に痛みが走った。
「ありがとうな。これ見せたらばあちゃんもきっと喜んでくれるよ」
「……ん」
佐藤を病院の入口まで送った。
その後家族に電話をして、再び病室へ戻る。
ばあちゃんは眠ったままだ。口元に運ばれる酸素の音がやけに耳につく。エアコンの効いた部屋で俺は老いた体がゆっくりと朽ちていくのをぼんやりと眺めていた。
思うことはいっぱいあったはずだ。言うべき言葉もいっぱいあったはずだ。それなのに頭がうまく回らない。
かわりに腹の虫が騒いだ。どんな状況に置かれても食欲だけは止めることができないらしい。皮肉なものだ。
「ひとつくらい……食べてもいいよな」
問いかけても返事はなかった。
俺は紙袋の中にあるものを手に取った。袋の口をリボンで留めただけのものだったが、リボンの緩み具合やたて結びになっているあたり佐藤本人がラッピングしたのだろう。
袋の口を開けた瞬間甘い匂いが鼻を刺激する。
感想の言葉を失った。
入っていたのは朝ばあちゃんの手のひらにあったのと同じものだった。両端をねじって包装されたキューブチョコ。ちゃんとクローバーが刻まれている。
ばあちゃんは馬鹿の一つ覚えみたいにバッグに持ち歩いて、誰にでもあげていた。本当は俺も大好きなお菓子だった。
ばあちゃんは佐藤にもチョコ渡したのだろうか。
ねじれた包装紙をほどき一.五センチ四方のそれをつまんだ。
四つ葉は幸せを運んでくれるのだと最初に教えてくれたのはばあちゃんだ。彼らもまた俺がおぼえているばあちゃんの一番初めの記憶に存在していた。
口に含み久しぶりにかみ砕く。佐藤の優しさが身に染みる。小さい頃はとても甘くておいしいと思ったのに――口の中が痛くなった。悔しさがこみあげる。
今朝どうして優しくできなかったのだろう。最後に放った言葉が邪魔、だなんて。
俺は瞳からこぼれるものを堪えようとすぐに飲みこんだ。喉につっかかる。舌に残ったのは少しのしょっぱさと苦みだけだった。
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