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 St.V.D ―Smiling―

「ここにいたんですか」
 穏やかな声が私の耳に届く。胸の奥がつきん、と痛んだ。心臓がどくどくと音を響かせる。
 もりくん。
 私は心の中で彼の名前を呼んだ。
 今、学校の屋上には私達以外誰もいない。びゅうびゅうと吹き荒れる北風が私の髪を乱す。時折、地面からせり上がってくる風と合流して見えないうずを作っていく。もしかしたら普通に地面に立っている時より悲惨な情況なのかもしれない。
 でも、ここしか逃げる場所がなかったのだ。
 杜くんはスリーピースと呼ばれるスーツの上にフロックコートを着ていた。まるでどこかの屋敷にいる執事のようだが、杜くんにその格好は似合わない。私はそう思っている。確かにそれに関する教養は積んでいるけれど、彼はあくまでも私だけの秘書であり、私の命を預かる護衛なのだ。
 それでも杜くんの紳士的な態度は群を抜いている。杜くんは早速自分の着ていたコートを脱いだ。膝を折り、私の肩にそっとかけてくれる。
「そんな薄着では風邪をひいてしまいますよ」
 コートの内側から伝わるぬくもりがとても優しすぎて、切なくて、私はぎゅっと唇をかみしめる。フレームのない眼鏡の奥にある温かい眼差しは決して私を責めることはなかった。
「突然いなくなって、皆さん心配していました。さあ、戻りましょう」
「……」
「どうしました?」
 私は首を横に振った。
「戻りたくないんですか?」
「だって……」
 私は杜くんを見上げる。彼の唇につけられた紅のあとはすっかり消え去っているけれど、記憶はどうしてもぬぐい去れないでいる。しくしくと胸から涙がこぼれてしまいそうだ。
 本物の涙がこぼれないうちに私は杜くんからつい、と顔をそらした。
「いいの。私、ずっとここにいる」
るい・・さん」
 名前を呼ばれても私は返事をしなかった。体育座りのまま、小さくまるまる。
 杜くんの口からため息がこぼれる。言っても無駄だと悟ったのか、私に背中を向けた。
 コートを脱いだおかげで腰のあたりに黒く四角い機械がついているのを確認できる。右耳にはイヤホン――いわゆる通信機だ。
 私の護衛を務める者は常にそれを身につけていた。私自身も普段は盗聴器を付けているが、今日は自分のコートに付けていたので今は持っていない。
 私は腕時計で確認する。逃げ出してから三十分――いつかは捕まるとは思っていたけれど、こんなに早く見つかるとは思いもしなかった。私の体に埋め込まれたGPSから辿ったのだろうか。
 やはり、今の私にはこの檻から逃げ出すことができない。
 その上杜くんまで失ってしまったら――
 私は何のために生きればいいのだろう。


 ――二年前、家族を亡くしてひとりぼっちになった私に手を差し伸べてくれたのが杜くんだった。
 私が抱えている悲しみも秘密も、全て受け止めてくれたのは杜くんが初めてだった。杜くんがいればどんな辛いことも我慢できた。自分の望む未来を信じることができたのだ。
 それなのに。今日、私の前に現れた女に全てを壊された。
 ――はじめまして。瀬能有里です。
 杜くんがいずれ結婚する方だ、と紹介され、目の前が真っ暗になった。そんな話は聞いていない。ただ、今日は新しい取引先であるT社との会食がある、と言われただけだ。
 会場となったホテルのゲストハウスで、私はただ人形のように座っていた。
 今日は海外から有名なシェフをわざわざ呼んできたらしい。次々と出される高級食材の調べに私以外の人間はため息をつき、その色彩を楽しんでいるようだった。口に運び、美味しいと口を揃えて言っている。だが、今の私には粘土を噛んでいる気がしてならなかった。
 一番信じられなかったことは、この縁談が杜くん自身の希望だったということだ。
 どうして? 食事中、私は声にならない質問を何度も杜くんに投げかけた。けど返ってくるのは優しい微笑みだけだ。その度に私は杜くんの隣にいる有里を見て、心をかき乱される。嫉妬したあとに残るのは惨めな気持ちだけだ。
 そんな私をよそに、このホテルを経営するグループの社長――年の離れた義兄がワイングラス片手に家族について語っている。
 ――義妹は占いのまねごとをしているのですが、これが不思議とよく当たると評判なんですよ。もしよかったら二人の将来を占ってみては?
 ――へぇ。面白そう。
 杜くんの隣で有里がきらきらと目を輝かせる。有里の父であるT社の社長も興味を持ったようだ。
 ――だったら儂も是非見てもらいたいものだな。
 ――どうせなら我々のプロジェクトの行く末も見てもらいましょうか。何せ千を超える社員の将来がかかっているのですから。
 そう言って義兄は笑う。私は一瞬だけ義兄を睨みつけた。そして目の前で杜くんと有里が顔を合わせ微笑んでいる姿を見て、更に気分が悪くなる。こんな所に一秒たりとも居たくなかった。
 それなのに、皆さまを占ってさしあげなさい、と義兄がけしかけたので、
   ――ごめんなさい。今日は体調悪くてできないの。
 と私は見え透いた嘘をつく。おかげで鋭い視線を浴びたが、別に構わなかった。のどの渇きを潤そうと水の入ったグラスに口をつける。のどの奥がきりり、と痛みを訴える。
 誰よりも先に食事を終えると私は席を立った。
 化粧室に行く旨を伝えると、杜くんが立ち上がった。彼は私が一人にならないようにいつも側についてくれる。だが、今日だけは義兄に阻まれた。
 ――杜、今日は仕事のことを忘れなさい。有里さんがかわいそうだろう。
 ――でも、体調があまり良くないというのも心配ですから。
 ――他の者にまかせればいい。
 ――しかし……
 ――杜くん。今日くらい羽を休めてはどうかね。こういうのはメリハリが必要だよ。
 ――あら、仕事熱心な杜さんも私は素敵だと思うけど。
 彼らの会話はどこか白々しい。しかも自分が悪者にされた気がして余計に腹が立った。だから私は杜くんの好意をいらない、の一言ではねつける。
 ――子どもじゃないんだから、ひとりでいく。
 このまま逃亡しようとも思ったが、色々考え、結局諦めた。一応宣言通りに化粧室で用を済ませ、テーブルに戻る。すると、杜くんたちの姿は消えていた。どうやら二人だけで庭に出たらしい。
 私は二階へ駆けあがり、ベランダから中庭を臨んだ。
 この中庭は素人が見ても分かる位、手入れが行き届いている。芝生は見ていても柔らかそうな絨毯だった。ガーデンパーティにも対応できるようにしたのか、手前の一角に数個のベンチが置いてあるだけで、側にはカップルが並んでくぐれるような小さなアーチが作られている。
 二人はベンチに腰をかけていた。
 私から見て右側に杜くんは座っている。首を傾け、有里をずっと見つめている。杜くんの死角に入ったせいか、私がベランダから見ているのに気づいてはいないようだ。
 ――これ、バレンタインのチョコレートです。よかったら受け取って下さい。
 杜くんの隣にいた有里は綺麗にラッピングされた箱を持っていた。今日着ているスーツに合わせた淡い色――
 ――ありがとうございます。
 ためらいなく受け取る姿に、私はむっとした。今まで私以外からのチョコを受け取ろうとしなかったのに。
 チョコを受け取ってもらえたことで、有里の表情に可憐さが増す。やがて咲ききった花の続きを見るように、その表情にうっすら影が差した。
 ――私、杜さんにふさわしくないって思われてないかしら?
 ――どうしたんです? 急に。
 ――あら、気づいてなかったの?
 有里の微笑みに憂いが広がる。
 ――杜さんといつも一緒にいるあの子、食事中、私のことずっと睨んでいた。
 ――そうなんですか?
 ――きっと杜さんが大好きなのね。
 有里が杜くんの肩にもたれた。刹那、強い視線が私に向けられる。どきりとした。有里が私に微笑んでいたのだ。どうやら私の存在に最初から気づいていたらしい。彼女は最初に感じた清純さとは違い、どこか妖しく思えた。
 その白い指が杜くんの頬に触れた。その潤んだ瞳で杜くんを見ていた。
 ――こわいひと。
 言葉を紡いだ唇がすっと杜くんの口元へ運ばれていく。一方的な口づけだった。それでも、杜くんは抵抗すらしない。ただ、有里を受け止めている。
 いやだ。杜くんのこんな姿は見たくない。
 耐えきれず、私は二人から背を向けた。
 ゲストハウスをこっそり抜けて、ホテルの従業員用の出入口から抜け出す。冷たい空の下をやみくもに走った。どこでもいい。この忌まわしい事実から抜け出せる場所であれば。
 とはいえ、私が知っている外の世界は狭い。他にもこういったホテルやレストランに行くことはあるが、どこに何があるのか、てんで住所が分からない。
 こういうとき、何か目立つ建物でもあればいいのだけれど――
 ――あ……
 見上げた先に懐かしい光を感じる。建物の隙間からガラスで覆われた宮殿が見える。
 それは私が数ヶ月間だけ通っていた学舎に似ていた――


「――ひとまず、警戒態勢を解除して下さい。それからこっちの通信も一旦切ります……ええ、ここは安全ですから大丈夫です。重大事項があった時だけ携帯に連絡を――はい」
 杜くんは腰元についている機械に手を触れたあと、右耳にしていたイヤホンを外す。私には彼の行動の意図が掴めなかった。
「何――してるの?」 
「周りにいた護衛たちは解除しました。通信も全て切りました。これで僕たちの会話が外部に漏れることはありません。今なら何を言っても咎められませんよ」
「え……」
「何か僕に言いたいことがあるんでしょう」
 そうやって杜くんは悪戯っぽく笑う。
「ばか……」
 じわりと、目元が潤んだ。杜くんはいつだってそうだ。言葉にしなくても、杜くんは私がどんな気持ちでいるのかをちゃんと理解して、最善の方法を探してくれる。その優しさが嬉しくて、愛おしくて、憎たらしい。
 杜くんに飛びついた。
 拳をひとつ、彼の胸にお見舞いする。
「杜くんのばかっ。婚約者なんて聞いてないっ」
「すみません」
 あっさり謝られたことが悔しくて、もう一度拳を叩きつけた。それでも杜くんは私をそっと包んでくれる。ふわふわの毛布のように。
「うそつき! ずっと側にいるって、私のこと守るって言ったじゃない!」
「……婚約の話を黙っていたのは申し訳なかったと思います。でも、今の仕事から離れるわけじゃありませんし」
「そんなこと言ってるんじゃない!」
 たとえ紙切れ一枚の契約だとしても、私は杜くんが他の誰かのものになるのが嫌なのだ。誰かに触れられる姿を思うだけでも悲鳴をあげそうになる。でも、言えなかった。その先の一番大切な言葉がのどまで出かかっているのに、吐き出せずにいた。
 私は知っている。たとえ自分の気持ちを伝えたとしても無意味なことを。それを口にしたら、杜くんは本当に私の前からいなくなってしまう。私を支配している『彼ら』がそうしてしまう。
 そして杜くんも、私の気持ちに気づいていながら、知らないふりをしているのだ。そうすることが私のためであると思っている。
 私たちは守る者と守られる者――ただそれだけの関係。彼らの指示を杜くんは忠実に守っている。それが時々悲しくて、恨めしく思う。
「……ひどいよ。みんなずるい」
 大人たちは汚い。世の中のため、みんなのためと言って、結局は自分の都合のいいように人を振り回すのだ。相手が抱えている気持ちや闇を汲み取る隙さえ与えない。だからこそこの世界は回っていると、当たり前のような顔をする。
 やっぱり杜くんも彼らと同じようになってしまうのだろうか――
 突然、機械的な音が鳴る。私を抱えたまま杜くんが携帯を開いた。しばらくして、安堵のため息が耳に届く。
「どうやら間に合いそうですね」
 私がけげんそうな顔をして見上げると、杜くんは自分の携帯を見せてくれた。ディスプレイは受信メール画面。タイトルはない。送信元は私の知らない人物だ。

 本日中にT社の一斉捜索入る。情報感謝――

「何……これ」
「業務提携の話が持ち上がる少し前、T社が公共事業を入札したのですが、その時国会議員との間に不正な取引があったのではないかという情報を入手したんです。つい先ほど、その証拠を手に入れました。検察にリークした返信がこれです」
「え」
「今後はT社内で逮捕者も出てくるでしょう。今まで進めていた業務提携の話も中止せざるを得ない。おそらく……婚約も解消されるでしょうね。どちらも公式発表前でよかった」
 私は困惑した。杜くんの説明で情況はある程度は把握できたけれど、納得できないことがいくつかある。
 まず、杜くんがした行動は明らかに社長の意向に反している。そもそも業務提携の話は社長が独断で決めたことではなかったか。それとも、義兄はT社の不正を最初から知っていたのだろうか。
 私がそのことを問いかけると、杜くんは首を横に振った。
「社長は何も知りません。全て僕が勝手に動きましたから……このぶんだとあとで叱られるでしょうね」
 杜くんは肩をすくめた。
「じゃあ……不正の証拠は? どこで手にいれたの?」
 今日、杜くんは朝からずっと私の側にいたはずだ。私のいないときは義兄や有里がいた。隙を与えられない位、今日の杜くんは監視されていたと言ってもいい。そんな情況で証拠の受け渡しが一体どこで――
 私ははっとする。杜くんに渡されたチョコレート。もしかしたら、不正の証拠を杜くんに流したのは――
「でもどうして? なんであの人が」
 杜くんは微笑んでいた。私に対する温かい眼差しは変わらない。だが、彼をとりまく「何か」がそれ以上は知らなくていいと私に警告を発している。
「僕は会社に不要なものを切り捨てただけです」
 その一言で片付けられてしまった。私の中には不安だけが残る。検察の一斉捜査が始まったらT社が倒産に追いこまれる可能性はゼロじゃない。そうなったらあの社長一家だけじゃ済まされない。社員にまで影が差すはずだ。
 もしかしたらあの時彼らの未来を「視て」いた方がよかったのかもしれない。
 私が少しだけ後悔していると、
「大丈夫です。そうなる前にうちがT社を買い取っちゃえばいいんですから。吸収でも子会社化でもしとけば千人ぶんの生活くらい、どうにでもなります」
 と、心を読んだかのように杜くんがつぶやく。口調はとても穏やかだ。穏やかすぎて、逆に寒気が襲う。
 この人は笑顔の中にいろいろなものを隠している。相手を油断させるために味方さえ騙し、敵の懐に入るのもいとわない。傷つくことさえ恐れないのだろう。
 全ては会社のため――私のために。
  ――こわいひと。
 ふと、有里がこぼした言葉を思い出した。
 私はあれを自分に向けられた言葉だと思いこんで傷ついたけど、本当は杜くんへ向けられた言葉なのかもしれない。あのキスも私へのあてつけじゃなく、杜くんに対しての嫌がらせだったとしたら。
 そう思うと何だか癪だった。でも杜くんや彼女を責める気も起こらなくて、結局私の心はくすぶったままになりそうだ。
 私が複雑な顔で杜くんを見つめていると、杜くんから笑顔が消える。私から離れ、床にひざまずく。杜くんの中で私との境界線が張られた瞬間だ。
 私に緊張が走る。
「極秘で進めていた事とはいえ、貴方を混乱させてしまったことを心からお詫びします」
 杜くんは深々と頭を垂れている。私たちの間では当たり前の光景も、他人が見たら異様な光景に思えるのかもしれない。ここまで敬われてしまうと、つまらないことでやきもきしていた自分がちっぽけに思えて、急に恥ずかしくなってしまう。
「ですが、これから先、同じようなことがまたあるかもしれません。『私』もまた『彼ら』に利用される立場。今度は芝居ではないかもしれません。でも、これだけは信じて下さい。この先何があっても私は貴方の側にずっといます。この身をもって貴方を守り続けます」
「杜……」
「貴方が私の全てなのです」
 それは私が求めているのとは違う感情から出た言葉なのかもしれない。それでも、私の心を震わせるのには十分だ。
 感情を押し殺し、私は言葉を紡いだ。今の彼にふさわしい態度で向き合う。
「確かに、あなたの気持ちは受け取りました。もう顔を上げて結構です」
「はい」
 杜くんがようやく顔を上げてくれた。
 感情を失った顔に温かさが帰ってくる。柔らかな笑みが今までの緊張感を吹き飛ばしてくれる。私は火照った頬を隠そうとだぶだぶの裾で覆った。冷たい風が目に染みる。
 やがて、下がにわかに騒がしくなった。
 何だろう。
 気になって屋上の柵に身を乗り出すと、校庭に私と同じ年頃の少年少女たちの姿があった。彼らは大きな声で嘘だ、本当だ、ともめている。ケンカの元はどうやら「ハナコさん」らしい。
 私は苦笑した。落ち着いて考えれば生身の人間だって分かるはずなのに――私はすっかり幽霊扱いにされている。まあ、私もそれを楽しんでいたから別にいいのだけれど。
「るいさん」
 名前で呼ばれ、今度こそ私は振り返る。杜くんの微笑みを全身で受け止める。
「さっきからずっと気になっていたのですが――これは何ですか?」
「ああ、それ?」 
 私の側には段ボール箱が一つ置いてあった。そこには色とりどりの小箱が山積みになっている。それらは家庭科室の戸棚にこっそり隠されていたものだ。
「怪しいものじゃないよ。単なる嫌がらせ」
「はい?」
 首をかしげる杜くんに、今度は私が微笑んでみせた。

           
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