top


 St.V.D ―Taste of milk―

「どうしたの?」
 誰かが私に声をかけてくる。女の子の声だった。
「具合でも悪いの? 先生呼ぼうか?」
 私は首を横にふった。ほおをつたう涙がわずかにふるえる。つられて歯ががちがちと鳴った。泣いてばかりいて気がつかなかったけど、冬の廊下はとても寒いことを思い出した。
「体冷えてる……保健室行こ。あそこなら暖房きいているから。このままじゃ風邪ひいちゃう」
 女の子は私の肩に触れ、そっと起こしてくれた。身長一四八センチの私と肩の高さがちょうど重なる。そのまま私は彼女に支えられて歩き出す。周りには誰もいない。当然だ。この時間は授業中なのだから。
 六時間目のチャイムを聞いてからだいぶ時間がたっていた。
 ――保健室には誰もいない。
 気にもとめず、女の子は私をいすに座らせるとエアコンのスイッチを入れる。ごおごお、という音が耳のなかでくるくる回り始める。女の子は先生の机の上に置かれた紙をすくいあげた。
「保健の先生、家庭科室にいるみたい。『何かあったらそっちに来て』だって。呼ぼうか?」
 再び私は首を横に振る。
「じゃあメモだけしておくか――クラスと名前は?」
「六年三組――真下由衣」
 女の子は同じ紙の上でペンを走らせている。その横顔を私はぼんやりと見つめた。
 肩までのびた髪にぱっちりした目。寒さのせいか、ほおがほんのり赤らんでお人形さんのようだ。着ている紺のワンピースはよそ行きっぽくて、私よりお姉さんに感じる。でも六年より上の学年はあるわけがないから――同い年なのかもしれない。他のクラスの子だろうか。
 何をしゃべったらいいのか分からずうつむいていると、甘いにおいが鼻についた。少し溶けてしまった一口サイズのチョコレートがいきなり目の前に現れる。
「机に隠してあった。お菓子は持ってくるなーとか言ってるくせに、ずるいよね」
 女の子はそう言って小さなハートを口に放りこんだ。
 私は思った。これも他の生徒から取り上げたものなのだろうか。そしたら私のもこんな風に食べられてしまったのだろうか。
 そう思ったらまた切ない気持ちでいっぱいになってしまう。涙と一緒に言葉が流れた。
「あたしのチョコ……先生に取り上げられちゃった……」
 私のか細い声に女の子が首をかしげる。
「あやまって、返してってお願いしたのに……」
 ……午後の授業が始まってすぐ、持ち物検査が行われた。
 ――バレンタインだからってうかれるな。学校にお菓子を持ってくるのは禁止なんだからな。
 そう言って幹先生はルール違反した生徒からチョコレートを取り上げると、職員室へ持って行ってしまった。取り上げられたのは、知らぬ間に机の中に入れられてたと言っていた男の子数人の分がほとんどで、女子は私だけだった。
 五時間目が終わり、私はまっさきに職員室に向かった。
 ――お願いします。もう持ってきたりしませんから、チョコを返して下さい。
 どんなに反省の言葉を訴えても先生は聞き入れてくれなかった。それどころか、取り上げたチョコレートは全て先生たちで食べてしまうと言ったのだ。
 ――これは学校での決まりごとを守らなかった罰だ。反省しなさい。
 先生の言葉は正しいのかもしれない。でも、心の奥で何かが詰まるような感じが残された。苦いものが口の中に今にもあふれそうだった。
 職員室をしょんぼりとした顔で立ち去ると、今度は同じクラスの伸子が待ちぶせていた。彼女はクラスの中でも女子のリーダー的な存在だ。その両脇ではとりまきの女の子たちが今にも吹き出そうな笑いをこらえている。
 ――残念だったわね。真下さんもチョコ持ってきてたって知ってたら一緒に隠してあげたのに。
 嘘だとすぐに分かった。伸子はきっと、朝から知っていたに違いない。私が今日チョコレートを持ってきていることも、午後に持ち物検査があるということも。でなかったらそんな風に私を見下したりはしないはずだ。
 ――無理かも知れないけど、私から先生に頼んであげようか?
 そう言って伸子はくすくす笑った。見下された私は唇を噛んで悔しさを消す。伸子は私の好きな人が誰なのかを知っていた。だから私にだけ話さなかったのかもしれない。
 そう、すべてはライバルをけ落とすため。
 私はその場から逃げるしかなかった。でも、溢れてくる涙だけはどうしようもなくて――結局、誰もいない廊下の隅で小さくなることしかできなかったのだ。
 そして今、ここに座っている。
 女の子の手が二個目のハートから離れた。
「好きな子に渡そうとしたの?」
 私はうなずいた。
 少し前、私の側にいた一年生が学校に迷いこんだ野良犬に襲われそうになったことがある。その時追い払ってくれたのが同じクラスの篠田くんだった。必死になって野良犬に立ち向かう背中は強くて、かっこよくて――初めて男の子に意識を持ったのだと思う。
 恋をしたのも、男の子にチョコレートをあげるのも今年が初めてだった。
 それなのに――
「今から買い直せば間に合うかもよ」
「ううん。もうだめ……」
 その前に伸子が告白している。朝、授業が終わるまでに渡すと取り巻きたちに言っていた。何でも日本で一番はやっているお店のチョコレートを買ったらしい。伸子はクラスの中で一番可愛い顔をしているし、表向きの性格も明るくて人うけがいい。ひっこみ思案な私とは大違いだ。
 きっと……篠田くんもそういう子の方が好きなのかもしれない。
 私はため息をついた。世の中はなんて不公平なんだろう。私はただ、思いを伝えられればそれでよかっただけなのに。神様はそれすら叶えてくれないなんて。
「ねぇ」
 声をかけられ、私は泣きはらした顔を上げた。が、思わずのけぞってしまう。女の子の顔が近すぎたのだ。大きくて迫力のある目で見られたものだから私の涙がいっきにひいてしまう。
「何でバレンタインにチョコなのか知ってる?」
「しら、ない……」
「あれはチョコの売上を伸ばすために考えた作戦。女性からチョコを渡すのは日本だけの文化なんだって」
 女の子はくるりと踵をかえした。三歩ぶん私から離れて振り返る。肩まで伸ばした髪がふわりと揺れた。
「もともとこの日は豊年を祈るお祭りの前日だったの。当時の人たちは男性と女性が別々に暮らしていたんだけど、祭りの期間だけ男性は女性と一緒に過ごすことができたんだって。その組み合わせはくじ引きで決められたんだけど、それがきっかけで結婚する人たちも多かったみたい。まだローマ帝国って言われてた時の話よ。
 それから、バレンタインって人も実在していたの。その人はキリスト教の教司――今で言う牧師さんなんだけど、彼は兵士の結婚を禁止していたクラウディウス二世って皇帝に逆らって、内緒で彼らの結婚を許してたんだ。でもそれがばれてしまって祭りの前日の二月十四日に神の生け贄として処刑されてしまったわけ。今日は彼の命日でもあるんだ。
 欧米では彼の生前の行動にならって男女に関係なく愛情や感謝の気持ちを書いたカードを渡すのが伝統だそうよ。お菓子も渡したりするようだけど、チョコとは限らないみたい。つまり、日本にいる私たちは大人たちの策略に見事踊らされているわけだ」
「そう……なんだ」
 私は間抜けな声をあげてしまう。ローマとかクラなんとかとか、サクリャクっていうのがよく分からないけど、バレンタインとチョコレートがもともと関係なかったことだけは分かった。
「でも、それと私に何の関係が」
「だから」
 彼女は人差し指を私に突きつけた。
「あなたはチョコがなかったら何もできないわけ?」
「え」 
「気持ちを伝える方法なんていっぱいあるのに、あなたはチョコがないだけで簡単にあきらめちゃうわけ? あなたのいう『好き』って、そんな程度のものだったの?」
「そんな……」
「それとも誰でもいいからチョコあげて、気分だけ味わいたかった?」
「違う」
 私は反論した。
「私は……篠田くんが好きだから――中学生になったら違う学校になっちゃうから、だから卒業する前に自分の気持ち言いたかっただけだもん!」
 その時授業終了を知らせるチャイムが鳴った。
 まずいと言わんばかりに女の子の顔色が変わる。壁にかかった時計を一度確認すると、
「だったらなおさら、その気持ちをきちんと伝えなさい。離れてからじゃ遅いんだから……絶対よ! 何もしなかったら恨むから!」
 そう言い残して扉とは反対にある窓から飛び降りた。あっという間に姿が見えなくなってしまう。
 一体何なんだろう。
 私は呆然としてしまう。しばらくして保健室の扉が開いた。
「由衣、ここにいたんだ」
 現れたのは桜ちゃんと麻紀ちゃんだ。彼女たちは隣のクラスだけど、同じ図書委員で仲が良かった。篠田くんを好きだと伸子にばれてからクラスで浮いてしまった私をとても心配してくれている。
 帰りの会が終わったのか二人はランドセルを背負っていた。
「由衣ちゃんのチョコ、取り上げられたんだって?」
 麻紀ちゃんに聞かれ私はうなずく。でも、さっきのような悔しさが再び訪れることはなかった。
「でも安心して。伸子ふられたから」
「え?」
「篠田、伸子のチョコ受け取らなかったんだって」
 桜ちゃんの言葉に私は目を丸くした。篠田くんが伸子をふるなんて、思ってもみなかった。
「どうする? 今がチャンスかもしれないよ」
「あ、でもチョコ――」
 さっきまでここにいた女の子の言葉がよみがえる。私は決心した。
「ううん。チョコなくても……私、大丈夫だよ」
 鞄とりにいってくる、と私は言う。桜ちゃんと麻紀ちゃんはお互い顔を見合わせうなずきあっていた。


 ……教室に入るとすすり泣く声が聞こえた。伸子だ。さっきまで真っ直ぐに伸びていた背中が小さく丸まっていた。机の上には濃い青色の箱。取りまきたちはどうやって励ましたらいいのか分からず立ちすくんでいた。
 こうやってしょげている伸子を見ると少し可哀想に思えてくる。
 でも私はなるべく見ないようにした。教科書をランドセルにつめこむ。お気に入りのメモ帳にペンを走らせ、紙をもぎ取る。それをポケットにねじ込みランドセルと共に教室を飛び出した。  緊張とあせりと怖さをふきとばすように廊下を走る。
 今ならまだ追いつくはずだ。私は急いだ。
 そして昇降口を出たところで追いつく。篠田くんは仲のいい友達数人と一緒にいた。そのうちの一人が桜ちゃんと何か言い争いをしている。
「それ本当かよ。なんか嘘くせぇ」
「ほんとだって。私、ハナコさんと文通してたんだから」
 どうやらハナコさんのことでもめているようだ。
 ハナコさんというのは学校に現れる幽霊だ。誰もいない体育館でピアノを弾いたり、先生のいない時にケガをした男の子を助けたり――とりあえず悪い幽霊ではないらしい。つい最近では避難訓練中に幹先生がいなくなったのもハナコさんのせいだと噂されていた。
 桜ちゃんは疑う男の子たちに、
「驚かないでよ。ハナコさんが書いた手紙がここにあります!」
 と細長い紙を高くかざした。男の子たちがそれに気をとられる。麻紀ちゃんが私の背中をそっと押した。がんばれ、の気持ちがつまったガッツポーズが私に勇気を与える。意を決し、私は篠田くんの服を引っ張った。
「篠田、くん」
 篠田くんが振り返る。ドキドキがさらに早まる。思わず一度息をのみこんでしまった私――
「あのっ。これ……読んで」
 差し出したのはメモ帳の切れ端だ。急いで書いたし、すごく薄っぺらいけど――そこには私の素直な気持ちが書いてある。
 あなたが好きです。
 たった一言を渡すのに体がぶるぶるふるえた。本当はここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。実は大変でとても大切なものなのだと思いしらされた。
 篠田くんが受け取ってからしばらく間があった。周りは人の声でさわがしいはずなのに、それすら聞こえない。
 答えは突然だった。
「これ……なかったことにして」
 心臓にナイフが突きささった気分。うつむく。じわりとにじみ出た涙を止めようと一度唇をかんだ。悲しかったけど、考えてみれば伸子だってふられたのだ。私の告白すら認めてくれないのは当たり前なのかもしれない。
 それでも「気にしないで」と顔を上げて私は強がる。
 でも――
「違うんだ。なかったことにしてほしいって言ったのは、その」
 篠田くんが目をうるませた私をじっと見つめている。そのほおが赤く染まるのを見た。どくん、と心臓の音が体中にひびく。
「おぼえてるか? ここに野良犬が迷いこんだ時のこと」
「ん」
「あれ、おれ一人で追い払ったことになってるけど――本当は真下も守ってたんだよな。一年生がケガしないように盾になってたの……知ってる」
 私は言葉を失った。
「すっげえ怖かったはずなのに、逃げなかった真下がすごいって思った。強くてかっこいいって思った。あれ見ておれ……真下のことが好きになったんだ」
 篠田くんが放った言葉の勢いに押され、私の顔が沸とうしたやかんのように熱くなる。体の力が抜け、しりもちをついてしまった。
「大丈夫か?」
「だい、じょうぶ……びっくりしただけ」
 篠田くんの手を借りて、私は起きあがる。ふれた手が熱い。急に恥ずかしくなった。それは篠田くんも同じだったようで、私たちは顔をつき合わせるとお互いに照れた笑いをのぞかせる。
 そして――
「なんだあれ」
 あっちで話を聞き終えた男の子たちが騒いだ。桜ちゃんも麻紀ちゃんも、みんな空を見上げている。つられて見上げると、赤い箱が目に入った。どんどん近づく。金色のリボンが夕日を浴びてきらきらと輝いている。
 箱は一度地面に打ち付けられてから私の足元に転がった。それは私が篠田くんへ渡そうとしていたチョコレート。こんなところで出逢うなんて思いもしなかった。
 それだけじゃない。あとを追うように色々な大きさの箱が空を舞っている。チョコレートの雨だ。
 気がつくと私と同じように、心当たりのある女の子たちが大声をあげている。それは喜びの歓声にも、恥ずかしさからの悲鳴にも聞こえた。
「おまえらそれに手を出すな! 拾うんじゃない」
 さわぎを聞きつけたのか、先生たちが校庭に飛び出す。先頭を走るのは担任の幹先生だ。どうして、と叫びながら必死になってばらまかれたそれをかき集めている。そこへ子どもたちが押しよせる。あっという間に先生を取り囲むと、取り合いが始まった。
「先生ひどい。それあたしのチョコ!」
「やめろっ。これは明日まで預かろうとして……」
「ずるいよ。おれにもチョコちょうだい」
 とても不思議な風景だった。みんながみんな、チョコレート振り回されている。何が起こったのかはよく分からないけど――
「誰がこんなことしたんだ!」
 先生の悲鳴に私ははっとした。再び空を見上げる。耳元を通り抜けた風が何かささやいた気がした。私は何だかうれしくなってしまう。
「篠田くん。これ、一緒に食べよう」
 私は金色のリボンをするりとほどいた。

               
top