2 或る休日 side="K"
 あいりが店でランチを楽しんでいる頃、甲斐は自分の住んでいるアパートの隣りにいた。如何にもな日本家屋の茶の間で小さなため息が広がる。
 事の発端は十分前のこと。
 甲斐が布団の中で夢の世界に漬かっていると、インターホンが一回鳴った。平日のこの時間、友人も知り合いも仕事に追われているため、甲斐の部屋を訪れる人間はほとんどいない。だから甲斐も宅配か何かの勧誘だと思い居留守を使った。宅配なら再配達できるし、勧誘は門前払いで結構。せっかくの休日をつまらないことで費やしたくない。布団をかぶって無視していると連打のごとくピンポンを鳴らしてくる。
 ずいぶんしつこいな。
 甲斐は枕元に置いてあった耳栓を使って音を封じた。扉の向こうで何か叫んでいた気がするが、徹底的に無視した。やがて、扉の周りが静かになる。そして甲斐が再びまどろみの世界へ足を突っ込みかけた頃――机に置いた携帯が盛大に震えた。発信者がこの家の大家だと知り、甲斐は全てを悟る。
「隣りの大家ですけど、ちょっとウチへおいで。というか来なさい。今すぐに」
 その、命令口調にも等しい物言いに甲斐の目がいっきに冴える。このアパートは甲斐が上京した時からかれこれ十年ほど住んでいるが、大家にはいつも頭が上がらない。お金がなかった苦学生の頃は家賃を滞納しても快く待ってくれたし、甲斐を家に呼んで食事を御馳走してくれたこともあった。そんな恩人と言うべき人を勧誘だ迷惑だと勘違いしたことは罪にも等しい。
「うわぁぁ! 今行きますすぐ行きますっ飛んで行きます」
 焦った甲斐は大家に向かってそう叫ぶと服だけ着替え外に出た。鉄骨の階段を一気に駆け下りる。隣りにある立派な門扉の前で一度呼吸を整え、カメラ付きのインターホンを押した。かなり慌てていたので顔も洗っていない。マスクをつける余裕もなかった。だから今は鼻から沢山の情報が入ってくる。
 大家の家は独特の臭いが籠っていた。玄関から入って最初に鼻についたのは線香の香りだ。それは大家が毎朝仏壇に手を合わせ、線香をあげているせいだろう。二年前に亡くなった大家の夫も気心の知れた良い人だった。
 軋む廊下を歩き茶の間へといくと、今度は魚の臭いが届いた。隅っこには大根の瑞々しさと大豆の香ばしさが伺える。甲斐がこの家の朝食メニューを想像すると、起きぬけの腹がぐう、と音を立てた。そう言えばまだ何も食べていない。すると音を聞きつけた大家がすかさず茶受けのせんべいを差し出す。甲斐は砂糖醤油の甘い香りごとそれをほおばった。
 「ふで、ふぉぐになぶのよおぶぇ?」
 甲斐は固いせんべいを噛み砕きながら大家に訊いた。だが、食べながらの言葉は意味不明で宇宙語を話しているようにしか聞こえない。大家は何言ってるか分からないわよ、と言って入れたばかりのお茶を差し出した。甲斐がそれ一気に飲み干し、で僕に何の用ですか? と改めて問う。ようやく言葉を理解した女家主はちょっと困ったような顔をして実はね、と話し始めた。
「うちの孫がさぁ、三日前から近所で子猫が迷子になっているから助けてって言ってくるんだよ。でもどこを探してもその子猫どころか鳴き声も聞こえなくて」
「はぁ」
「でね。もしかしたら飼い主や親猫が子猫見つけたんじゃないかなーって思って。孫にそう話してみたんだけど、孫はまだ猫の声が聞こえるっていうの。変でしょ?」
「そうですねぇ」
 甲斐は相づちを打ちながら指に残ったざらめを舐める。
「私もこの年だし、今は孫に付き合うのもしんどくてねぇ。で、孫に言ったのよ。こうなったらいぬのおまわりさんに探してもらおうって」
「……はい?」
「つまりはそういうことだから、頼むわね」
「え? わ、はぁい?」
 話の流れが読めない甲斐は思わず変な声を上げる。
 大家の話をもう一度思い返した。重要なのはたぶん「いぬのおまわりさん」の所だろう。いぬのおまわりさん――言葉を一度口にした後、甲斐はあることを思い出した。それは大家の孫娘が自分をワンちゃんと呼んでいたことだ。その瞬間甲斐の目がぱっちりと開いた。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ大家さん。僕にその猫探せってことですか? 僕、犬でもおまわりさんでもないし」
「でも警察で働いているんだろう?」
「そうですけど。でも僕の仕事は事務で。というか、そう言う話は警察じゃなくてええと――」
「聞いたわよぉ。たまに捜査に借りだされているんだって?」
「げ。誰からそれを」
「あの背の高い刑事さん、すらっとしてかっこいいわよね。私がもう三十年若かったら口説き落としてたわぁ」
 今年で還暦を迎えようとしている女主人はそう言って頬を赤く染めた。背の高い刑事と言う話で、甲斐の頭にすぐ浮かんだのは今春刑事課に配属になった瀬田あいりだ。
 あいりという名の通り、彼女は女性である。だがあいりは男前ないでたちと度胸を持っていて、初対面の人間の大半はあいりを男と間違える。実際甲斐も初めてあいりに会った時はずいぶんでかい男だなぁと、彼女の上の部分だけを見て思ったものだ。
 でもあいりは甲斐の住んでいる場所も知らないし、捜査情報を簡単に漏らすような人物じゃない。だとしたら、考えられる人物はあとひとりしかいない。
 その人物は甲斐の高校時代の先輩でもあり、甲斐を捜査の前線へ放り投げた張本人だ。本店の管理官――中上は前科こそないが昔は相当やんちゃをして周りを困らせていて、甲斐も何度かとばっちりをくらった過去がある。
 今も捜査の途中で冗談とも思えない暴走をするから正直ひやひやする。そして重大な情報をぽろっとこぼすから困る。
 全く余計なことを。甲斐はこっそり毒づいた。
 悶々としている甲斐をよそに、大家は勝手に話を進めていく。
「今日は保育園が半日で終わるから。そしたら孫の話を聞いてやって。私、午後から友達と約束があるから。よろしくね」
 にっこりと笑う大家に甲斐は苦笑で返した。今の言葉、裏を読めば孫のお守をしろと言っているように聞こえる。もしかしたら大家はそうしたくて甲斐を呼びつけたのかもしれない。猫探しというのは体のいい言い訳かなんかで――
 大家の最終目的を知った甲斐はなんだろうな、と小さく呟き肩を落とした。