坂井さん
佐倉咲(さき)はサクラサク。受験生が私に触れれば合格確実。彼女の持ち物を身に着けていればどんな難関校も突破できる。
誰が流したのか、その噂のせいで私は毎年苦痛を強いられた。
一月も後半に入ると受験生たちがかまわず私の体に触れてくる。悪びれることなく自分の使ったものや持ち物を盗っていく。ひどい時は髪の毛まで。
そんな私の姿を見かねて止めろと注意してくれたのが金谷先輩だった。
先輩は彼らに二度とこんなことをしないよう釘をさしてくれた。先輩も受験生なのに、私はその気づかいがとても嬉しくて――先輩の事を好きになるのにそう時間はかからなかった。
***
その日、私の心は浮ついていた。
鞄の中にあるのは感謝と好きという気持ちを込めて作った手作りチョコ。今日は甘いお菓子と共に想いを告げるイベントだけど、今年は私にとって特別な意味を持っていた。
一刻も早く先輩に渡したくて、放課後私は教室を一番に飛び出した。いつも待ち合わせている昇降口へ向かう。急いで足を運ばせると階段の手前で金谷先輩の姿を見つけた。
これは何て素敵なタイミング。
廊下にいた私は声を掛けようとする。けどその役回りは別の人に奪われた。
「おー金谷。これから図書館で勉強しないか?」
「悪ぃ。今日はパス」
「何だよー今日も佐倉と帰るのか?」
「そういうこと。何たって今日はバレンタインだし」
「おまえもマメだなぁ。まさか、佐倉のこと好きになった?」
先輩の同級生の発言に私の心がどきりとうずく。一瞬で顔が火照った。
私は先輩の答えを聞き耳を立てて先輩の返事を待つ。先輩の口からこぼれたのは――
「百パーありえないっしょ」
それは私からは想像もできない、とても冷めた声だった。
「だいたい見た目からして佐倉って暗いし地味だし完全に名前負けだろ。付き合うなんてありえねー。今日アイツのチョコ手に入れたら適当にあしらってバイバイしてやるっての」
「うわ、佐倉のジンクスから守ってやるっていったのはどこのどいつだー?」
「こういうのは優しくして向こうから自分の物をあげたい気持ちにさせるのが一番なんだよ。バレンタインさまさまだ」
「金谷ってば極悪人。猫かぶりー」
げらげらと笑う先輩たちに私の体が固まる。沸騰しかけた頭の中が急激に冷やされて訳の分からない痛みを一瞬味わう。それは騙されたことへの悔しさ。傷つけられたことへの悲しみ。もしかしてと思いあがっていた自分への恥ずかしさ。
色々な感情が私の中を渦巻く。でも体が心に追いつかない。目の前の現実を受け入れたくない自分がいるのだ。
――佐倉がひどい目に遭わないよう僕が守ってあげるから。
あれは先輩の本心じゃなかったの? 嘘だったの? 最初から、私の気持ちを利用して――騙すつもりだったの?
次の瞬間バン、と何かが叩きつけられる音が下で響く。
先輩のわっ、という悲鳴が私の耳をつんざいた。
私は恐る恐る先輩の方を見る。すると先輩の足元にとても長い棒のようなものが転がっていた。あれは先生が授業に使う世界地図を巻いたものだ。
「あーすみません。ちょっと階段に『躓いて』つい手が『滑』っちゃって……ああ、そっちに『落ち』ちゃいましたねぇ」
階段上から放たれるのは受験生にとって禁句のオンパレード。
先輩は教材を落とした人物に明らかに不愉快な表情を示し――それを一瞬で消した。降りてきた人物に毒気を全て削がれたのだ。
ふわりとした髪に優しい眉、ちょっと垂れた瞳は二重でぱっちりしている。口元に置かれた小さな黒子がまたチャーミングだ。
美少女の条件を満たしたその人は見覚えがあった。
名前は確か坂井さん。二つ隣りのクラスにいる同級生だ。
坂井さんは落ちた巻物を肩に抱え直すと、あれ? というような顔を先輩に向けた。
「もしかして……バスケ部にいた金谷先輩ですか?」
「?」
「あ、やっぱりそうだ」
突然現れた美少女は嬉しそうな顔で先輩を見上げた。
「私、先輩のファンなんです。とーっても素敵な先輩だなぁって入学した時から思っていたんです」
そう言って目を輝かせる坂井さんに、先輩の表情が緩んだ。告白ともいえる直球にそぉ? なんて首を横にかしげている。美女相手にまんざらでもない様子だ。
「あの、そんな素敵な先輩にひとつお願いがあるんですけど」
「え? なになに?」
すっかり鼻の下を伸ばした先輩に坂井さんはにっこり笑ってこう言った。
「一瞬でいいんで死んでもらえますか?」
「は?」
次の瞬間、彼女はくるりと踵を返した。同時に彼女が肩にかけていた巻物が大きな弧を描き先輩の頭を吹っ飛ばす。宙を浮いた体は見事壁に激突。打ちどころが良かったのか悪かったのか、先輩は完全に伸びていた。
「下衆が」
ぽつりと呟いた彼女の低い声が私の胸にぐっと突き刺さる。
坂井さんは一つ鼻息を飛ばすと何もなかったかのように歩きはじめた。私の方へまっすぐ向かう。
すれ違った瞬間、坂井さんはふっと笑みをのぞかせた。それはまるで、私が何者なのか全て見透かしているような、そんな雰囲気。
私の心臓がもう一度うずく。視界から消えるまで、私は坂井さんから目が離せなかった。