見えない壁
私とあの人の間には見えない壁がある。手を伸ばした所であの人には届かない。触れることも叩くこともできない。
それでも私はあの人の好みを熟知していたし、今あの人が何を考えているのかも分かる。
今日は髪の毛があまりイケてない。目に隈もできているし、肌も荒れている。こんなんじゃ大好きな「あの人」の目にも止まらない。しっかりケアしなきゃ。
私が思うより先にあの人は顔パックを始めた。髪をすきコテで毛先を巻く。パックが乾くまでの間、あの人はクローゼットに頭だけ突っ込んで服を選んでいた。
そうだ、この間買ったワンピースがあったでしょう? あれにしてみない?
あの人が下ろしたての服を出す。一度部屋着の上に当て、うん、と頷いた。腕を通し、私の前に立ってからパックを剥がす。うん、とっても素敵。よく似あっている。
あの人は美容液と乳液をたっぷりつけ下地を塗り、ファンデを乗せた。まつ毛はぱっちりと、アイカラーは服に合わせた涼しげな色で。頬紅と口紅はしつこくない色を選びましょう。
いけない、もうこんな時間よ。急がなきゃ。
あの人はメイク道具をポーチに入れると仕事用のバッグを手にした。あの人が扉を閉めた瞬間、私は消える。残ったのは左右反転した部屋の風景。今度あの人に会えるのは仕事から帰ってきた時だ。
あの人はもう一人の私。私達は決して触れ合う事のない存在。
それでもあの人と私は心が繋がっている。